東海古城研究会から派生して、有志のベテラン会員さんの案内で名古屋を中心にした城郭、史跡の見学が行われています。この見学会は、現地集合、現地解散の自由参加行でわれています。当日現地に集合し、各自の都合で途中で帰るのも自由です。東海古城研究会の会員向け情報メールで日時、集合場所、見学先の案内があるほか、通常の見学会のバスの中でも案内が行われます。
現地に詳しい会員さんの案内で、ここでしか聞けない興味深い情報も多いので、できるだけ参加しています。
これまで織田信長が桶狭間合戦に向かった清州から鳴海に至る進軍路をシリーズで何回かにわたって見学してきましたが、今回はこのシリーズの最終回として、信長公記に登場する場面を想定しながら鳴海から桶狭間古戦場趾までを見学しました。

東福院 鳴海城の山門が移築されている
名鉄 鳴海駅に集合し鳴海城に向かいました。鳴海城は合戦時には今川方の岡部元信が守っていたとされます。岡部元信は合戦で討ち取られた今川義元の首を信長からもらい受けて帰ったと伝わる猛将です。
山門は修復が繰返されたのでしょう、もともとの山門の材は部分的にしか残っていないようでした。

中島砦付近 今は住宅地となった
鳴海城から信長公記で信長が兵を結集したとされる善照寺砦に向かいました。善照寺砦からは今川軍が布陣したと伝わる桶狭間の場所を見ることができました。
信長公記によると、善照寺砦から田の中の道を進んで中島砦へ向かったとされますが、現地は住宅地となっていました。参加者の中に現地で生まれ育った人がいて、子供のころは、ここから向こうが田んぼだったと説明されましたが、やっぱりイメージがわきませんでした。

昭和22年の中島砦付近の空中写真 国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより 図をクリックで拡大
帰宅してから、中島砦付近の昭和22年米軍空中写真を国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスで見てみると、現地で説明のあった田んぼがありました。このころまで信長公記のころの景色がこの辺りに残っていたのだとわかりました。
※空中写真には信長公記に出てくる地名、関連した地名の場所もいくつか写っていました。

今川義元本陣跡 後ろのマンション名にも本陣とある
桶狭間合戦の戦場がどこだったのかは諸説があり、名古屋市緑区と豊明市が各々名乗りを上げています。写真は緑区で、地元の熱心な研究者の方が主張しておられる場所だそうです。豊明市にも該当する場所があるそうですが、信長公記に書かれた桶狭間山の場所が判明していないので諸説が乱立しているのですね。

古戦場公園の「今川義元討死之地」の石碑
名古屋市緑区の古戦場公園は、近年熱心に整備されモニュメント類や古戦場のジオラマ、信長と義元の像などが新設されました。
豊明市側は昔からある石碑類を大切に守っていますが、見た目でいえば緑区側が優勢でしょうか。どちらも往時の資料が少なく信長公記も中島砦を出て合戦場に向かった信長の足取りがはっきりしない(諸説あり!)ので、このような有様になったようです。

長福寺 合戦後信長が首実検を行ったと伝わる古刹
信長がこの寺で合戦後に討ち取った今川方の首実検を行ったと伝わっています。最近になって合戦の戦死者の記録が長福寺から発見され、戦死者の中に近江の兵が多くいたと記載されているので話題になりました。近江の兵は信長の援軍として来ていたとされ、合戦の意味合いの解釈に新しく一石を投じるものになっているようです。
中島砦からの信長の進軍路、義元の本陣の位置、義元の西進の目的 などなど、諸説が入り乱れ、緑区と豊明市が本家争いをする現代の桶狭間合戦も知る機会となった歴史歩きでした。
現地に詳しい会員さんの案内で、ここでしか聞けない興味深い情報も多いので、できるだけ参加しています。
これまで織田信長が桶狭間合戦に向かった清州から鳴海に至る進軍路をシリーズで何回かにわたって見学してきましたが、今回はこのシリーズの最終回として、信長公記に登場する場面を想定しながら鳴海から桶狭間古戦場趾までを見学しました。

東福院 鳴海城の山門が移築されている
名鉄 鳴海駅に集合し鳴海城に向かいました。鳴海城は合戦時には今川方の岡部元信が守っていたとされます。岡部元信は合戦で討ち取られた今川義元の首を信長からもらい受けて帰ったと伝わる猛将です。
山門は修復が繰返されたのでしょう、もともとの山門の材は部分的にしか残っていないようでした。

中島砦付近 今は住宅地となった
鳴海城から信長公記で信長が兵を結集したとされる善照寺砦に向かいました。善照寺砦からは今川軍が布陣したと伝わる桶狭間の場所を見ることができました。
信長公記によると、善照寺砦から田の中の道を進んで中島砦へ向かったとされますが、現地は住宅地となっていました。参加者の中に現地で生まれ育った人がいて、子供のころは、ここから向こうが田んぼだったと説明されましたが、やっぱりイメージがわきませんでした。

昭和22年の中島砦付近の空中写真 国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより 図をクリックで拡大
帰宅してから、中島砦付近の昭和22年米軍空中写真を国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスで見てみると、現地で説明のあった田んぼがありました。このころまで信長公記のころの景色がこの辺りに残っていたのだとわかりました。
※空中写真には信長公記に出てくる地名、関連した地名の場所もいくつか写っていました。

今川義元本陣跡 後ろのマンション名にも本陣とある
桶狭間合戦の戦場がどこだったのかは諸説があり、名古屋市緑区と豊明市が各々名乗りを上げています。写真は緑区で、地元の熱心な研究者の方が主張しておられる場所だそうです。豊明市にも該当する場所があるそうですが、信長公記に書かれた桶狭間山の場所が判明していないので諸説が乱立しているのですね。

古戦場公園の「今川義元討死之地」の石碑
名古屋市緑区の古戦場公園は、近年熱心に整備されモニュメント類や古戦場のジオラマ、信長と義元の像などが新設されました。
豊明市側は昔からある石碑類を大切に守っていますが、見た目でいえば緑区側が優勢でしょうか。どちらも往時の資料が少なく信長公記も中島砦を出て合戦場に向かった信長の足取りがはっきりしない(諸説あり!)ので、このような有様になったようです。

長福寺 合戦後信長が首実検を行ったと伝わる古刹
信長がこの寺で合戦後に討ち取った今川方の首実検を行ったと伝わっています。最近になって合戦の戦死者の記録が長福寺から発見され、戦死者の中に近江の兵が多くいたと記載されているので話題になりました。近江の兵は信長の援軍として来ていたとされ、合戦の意味合いの解釈に新しく一石を投じるものになっているようです。
中島砦からの信長の進軍路、義元の本陣の位置、義元の西進の目的 などなど、諸説が入り乱れ、緑区と豊明市が本家争いをする現代の桶狭間合戦も知る機会となった歴史歩きでした。