城と歴史歩きを楽しむ

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三河・御前田城(細川城)から細川城山城へ 岡崎市文化財移動教室で訪ねる

2019-11-04 | 歴史

岡崎市では毎年、岡崎市内の文化財を専門家の解説で訪ねる移動文化財教室が開かれています。年間10回程度開催されますが毎回人気が高く、定員の2~3倍の応募があり、抽選で参加者が決まります。
 今回は運よく「岡崎市北部の城館遺跡を訪ねて・・様々な戦国社会を探ろう」の抽選で参加が出来ました。

今回の解説の講師は岡崎市文化財保護審議会委員の奥田敏春氏でした。氏は愛知中世城郭研究会のリーダーとしての活躍で知られており、岡崎の城郭・城館の第一人者でなので本格的な解説をお聞きできるものと思いワクワクで出かけました。


岡崎市のラッピングバスで岡崎市北部の城館を中心に見学
 見学先は井田城、岩津城など多数でしたので、今回は細川城山城を中心に記したいと思います。


細川、仁木地区の地図  国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
 
ここでのテーマは、鎌倉、室町、戦国時代と時が移るにしたがって、平地の居館から堀・土塁で防御された山城への移行が行われた姿を確認することでした。
 関東からここへ入部した細川氏と仁木氏は矢作川の河岸の地に居館を構え、両者が協力して矢作川の氾濫原を水田化して勢力を拡大していったとされます。いずれもこの土地にちなんだ細川、仁木を名乗りますが細川氏は後に京都へ進出して要職を務め、高い格式を得て活躍します。


御前田城(細川城) 遺構はなく、細川城の城址石柱が立つ。
 矢作川の河岸に有ったとされる御前田城の遺構はありませんでした。低湿地を水田に開墾していったと奥田講師から説明があり今までと違った、戦いの城ではない館のイメージが少し湧きました。


仁木城 今は仁木八幡宮となり遺構はない
 御前田城から南に350mの位置にあり、今は仁木八幡宮となっています。往時の館がどの程度の規模であったかは、わかりませんが、細川氏と協力して矢作川右岸まで勢力を伸ばしていたと解説がありました。
 ※仁木の地名は古代の木簡に「新木」と書かれていて古くからの地名だったようです。「にいき」と呼んだのでしょうか?


細川氏始祖の墓地 細川城山城北側の蓮性院に祀られている細川氏歴代の墓と講師の奥田敏春氏
 御前田城で勢力を蓄えた細川氏は京都へ移りますが、その後の活躍と高い家格への上昇からこの地のステータスも高かったと解説がありました。蓮性院は細川氏の始祖を祀る寺格の高い寺として存在してきたようです。
 蓮性院には細川護熙総理大臣に至る細川氏の系図が掲げられ、住職さんが誇らしげに説明して下さいました。


細川城山城 戦国の世になると平地の館から堀、土塁を備えた城館が高台に築かれ移行してきた
 細川城山城は松平がこの地を支配するようになって、大給松平氏が家康の要請を受けて移り住んだと解説がありました。細川氏の始祖の地というステータスの高さが、松平氏の一族で高い位置にあった大給松平氏にふさわしかったとされます。


細川城山城 主郭は掘・土塁で囲まれた方形で腰曲輪を備えていた
 耕作地として長く使われてきたので、城館の遺構は一部に残るのみですが残された土塁や堀などを、講師の解説を聞きながら見学すると、想像力が掻き立てられました。主郭は80m×80mの方形で、古いタイプの城館だという解説でした。
 付近には上市場、根古屋などの地名が残され、上市場の地割は方形で往還もほぼ直線で、市場を中心にした商業地が城下を形成していたことが分かりました。根古屋の地名には家臣の屋敷があり今も屋敷地の土塁が一部残されていました。


細川城山城 根古屋には家臣の屋敷地が土塁で区切られていた。残欠土塁が残る
 根古屋の地名には今も土塁が残一部残されていました。根古屋の南側には仲間町の地名があり下級武士の住まいが有ったところだったとの解説がありました。

細川城山城は、細川氏の高い家格をバックにしたステータスの高い地域を松平氏が利用して、一定以上の規模の城下町を形成したということがわかりました。
 今回のテーマの「平地の居館から堀・土塁で防御された山城への移行」についても詳しい解説によってかなり理解が出来たと思います。自分で訪れる城巡りと違って専門家の講師の解説を聞きながらの見学は期待以上の収穫があったと感じました。

 ※今回見学した岩津城、井田城なども機会があれば記していきたいと思います。