茂福城は三重県四日市市茂福町にあります。茂福「もちぶく」と読みます。
茂福城を築いた朝倉氏は越前朝倉より茂福へ来て茂福城を築き朝倉氏を名乗りました。北勢四十八家の一員で保々西城や市場城の朝倉氏と同族で有力豪族となったとされます。
代々この地に拠って勢力を維持していたと思われますが織田信長の北伊勢侵攻で落城したと伝わります。滝川一益のために当主が長島城に誘殺され落城したとされますが、その時期は永禄年間説と元亀年間説があるようです。
今回は「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976※1 と「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008※2 を資料として出かけました。
茂福城 遺構はわずかに残る。地籍図等からの想定した城域と城址碑のある残欠土塁?を加筆
資料※1によると、古くからの耕地整理により改変され主郭の一部が残っているとされます。地籍図が※1、※2に載っていましたので、およその位置を想定して書き入れてみました。現在わずかに残っている遺構は、主郭土塁の北東隅の部分と想定しましたが、どうでしょう。
茂福城 残欠遺構の北西辺をかすめるように近鉄名古屋線が走る
城域の一部が線路用地として使われたと思われ
間近を走る近鉄電車の乗客に向けた茂福城跡の看板が立っていました。
茂福城 駐車は付近の道路余白。残欠遺構の北東側に空き地がある。
残欠遺構の北東側に空き地がありましたが、堀跡を思わせる位置関係の場所です。
※個人の感想です。
茂福城 残欠遺構の南東側に立つ案内板と城址碑
ここから見ても残欠遺構は高くなっていますので、土塁の名残ではないかと思いました。保々西城なども土塁囲みの城館が残りますので、本拠地だった茂福城も同様の構造だったのではないかと想像しました。資料の地籍図もそのことを示しているように見えます。
茂福城 城址碑 残欠遺構の根元に城址碑が建つ
わずかに残る遺構だけの茂福城ですが、この城址碑があることで、城跡の存在感がグッとアップしますね。
北伊勢の有力豪族であった朝倉氏関連の城址は、保々西城や市場城の見事な遺構が目立っているため茂福城はあまり注目されていないようですが、伊勢朝倉氏の出発点を確かめることが出来てよかったです。