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壬生野城 伊賀 天正伊賀の乱で最後まで持ちこたえた堅城は見どころが多い

2020-03-05 | 歴史

壬生野城は三重県伊賀市川東字深田にあります。たまたま壬生野城を訪れた数日後にNHKのブラタモリで伊賀を取り上げて、川東の地名や深田の話題が出ていたのでとても興味深かったです。
 第二次天正伊賀の乱で織田軍に最後まで抵抗をつづけることが出来たのは、城の構造だけでなく番組で紹介されていたように、織田方が深田に足をとられて進みにくかったのかもしれませんね。
 ※番組では深田ではなくて「泥田」と言っていました。

今回は「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 を資料に出かけました。


壬生野城 川東公園の駐車場から案内標柱に従って進む。西側からも登れるが道は荒れていた
 川東公園の駐車場(2台)に車を停めて進みました。初めに南に向かって荒れた道を登りましたが、後で気付いて整備され案内標柱のある道もたどってみました。


壬生野城 案内標柱に従って進む。北と東を堀が取り巻く。北の堀は水を湛えている

 道の随所に立つ案内標柱にしたがって登ると城址北側の水堀に出ました。今も水を湛えている堀を見ると、なんだかうれしくなりますね。写真奥の案内標柱を右折すると空堀沿いに虎口に向かう整備された道が続きました。

壬生野城 概略図 目立つのは高い土塁と土塁の凹み。 凹みの意味は?
 主郭西側の法面には何段かの削平地がありました。主郭を取り巻く四囲の土塁のうち北、東、南には3~6条の凹みが有りました。東側の3か所の凹みは規模が大きく、南側3ヵ所は浅いものでした。北側6ヵ所は中規模のものでした。


壬生野城 東辺の堀 空堀だが主郭土塁との高低差は5m程ありそうだった
 主郭東辺下の堀は倒木などで荒れていましたが、主郭土塁との高低差は5m程ありそうでした。写真左手に道が有ります。
 

壬生野城 南東隅の虎口 人物と比較するとその規模が分かる。曲輪面よりも虎口面が高い
 壬生野城の虎口は南東隅の、この1か所のように見えました。西辺にあいまいな土塁の切れ目地形がありましたが、後世の破壊道のように見えました。小さな搦手口があったのかもしれませんね。
 虎口は人物と比較して分かるように、意外に大きくて高い土塁に囲まれていました。資料で見て、あまり大きな規模ではないと思っていたのでうれしい想定外でした。右手の林の中にも土塁が続いています。


壬生野城 主郭  想像以上に大規模で遺構の残りも良いが、土塁の凹みの謎が残る城郭 
 ブラタモリ
で柏原城の映像が映りましたが、壬生野城とよく似ていました。壬生野城と同様の土塁の凹みもあり、伊賀の主要な城の標準装備的な形態を示している様に思いました。


壬生野城 主郭東辺土塁の凹みを東下の空堀の堀底から見上げる
 
土塁の凹みの意味は?と疑問に思いつつ見学しましたが、ブラタモリでは「石落とし」として解説されていました。凹みを目指して切岸を登る敵兵に凹みの上から石を落として攻撃するということでしたが、残念ながらイマイチ腑に落ちない解説でした。かといって代案があるわけでもありませんので凹みは「石落としと考えられる遺構」としておきたいと思います。


壬生野城 北辺土塁の凹み 6か所ある
 
北辺土塁上には6ヵ所の凹みが設けられていました。東辺の凹みに比べると小ぶりな凹みです。この土塁の郭内の法面途中にはテラス状の平坦面がありました。いわゆる武者走りでしょうか?北辺の土塁の凹みと併せての防御設備のひとつかも知れません。※概略図参照

 
壬生野城 南辺土塁の凹み。土塁は北辺よりも幅広で、浅い凹みが3ヵ所ある
 南辺土塁の外側は急斜面で堀はなかったように見えました。南と西は今も田地ですが、往時は泥田だったので堀の必要性がなかったのではないかと想像しました。(図1参照)
 西側土塁には凹みがなく、土塁外側の法面には腰曲輪状の地形がみられました。泥田が堀の代わりになった安全な場所としての利用がされていたように思いました。

想像以上の規模で遺構の残りも良く、大満足の見学が出来ました。その上、壬生野城を訪れたすぐ後に、ブラタモリで関連の放映があり、番組で伊賀方面の城郭の権威である福井健二さんの解説も聞くことができ見学の復習も出来ました。