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美濃・馬隠し遺跡は小屋か砦か? 尾根上2ケ所にある遺構は一体なのか?

2020-06-01 | 歴史

馬隠し遺跡は岐阜県恵那市長島町にあります。
 今回は(1)岐阜県中世城館跡総合調査報告書 第3集 岐阜県教育委員会2004と(2)信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編  宮坂武男著2015を資料として出掛けました。
 資料(1)によると馬隠し遺跡は戦国期に戦乱を避けて付近の住民が避難した小屋跡だったとの伝承があるようですが、現地の状況から見ると砦の遺構と見るのが妥当ではないかとされます。資料(2)では積極的に砦遺構だとして「馬隠し砦」と名付けています。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 正家から岩村に抜ける旧道は遺構の西側を通っていた。今は永田林道が敷設された。
 旧道は恵那方面から正家を通り岩村に抜ける主要な道の一つだったと思われます。馬隠し遺跡(馬隠し砦) は、正家方面の詰城だけでなく、この道を扼する役割が有った可能性を感じました。現在は阿木川沿いの道路がメインになっています。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 永田林道の駐車スペースから正面の大小屋に登る 
 永田林道の途中に大きな駐車スペースが有りましたので、ここにアクア号を停めて、尾根上の大小屋へ登りました。道は有りませんので、急斜面をエィヤッ!と這って登りました。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 大小屋から細尾根を約100m下ると端小屋の南端の堀切dに達する
 大小屋は山城パーツが揃った本格的な砦でした。端小屋は細尾根の削平地に堀切を入れた単純な構造の遺構でした。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 大小屋南東部の曲輪①、堀切a・b、土橋Cと土塁ア
 大小屋は数段の削平された曲輪①、②と南西方向の尾根からの侵入に厳重に備えた堀切・土塁、土橋が明確に残っていました。土塁アは堀切の土を掻き上げて積んだように見えました。南西尾根から土橋Cを渡って直接曲輪に入れないように道は左に折れて曲輪②に入るようになっていました。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 大小屋  曲輪②はきれいに削平されている。奥に土塁ア
 大小屋にはメインの削平地が①と②の2つあり、周囲に小さな削平地がいくつも付随していました。南西方向の尾根に対しての防御施設は厳重ですが、北東方向の端小屋方面の守りは見当たりませんでした。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 端小屋 南端の堀切d 中央部は土橋状
 大小屋から細尾根を約100m下ると端小屋の南端の堀切dがありました。今は中央部が土橋というよりも通路状になっていますが、往時は堀切がもっと切れ込んでいて狭い土橋になっていたのではないかと思いましたが、どうでしょう。

 
馬隠し遺跡(馬隠し砦) 端小屋  中間部の堀切e  奥に曲輪③
 この堀切も中央部は通路状に風化している印象でした。奥の曲輪③は細尾根を削平した幅の狭いものでした。堀切以外には特段の防御施設は見当たりませんでした。尾根の急な斜面を備えとして利用しているということでしょうか。


馬隠し遺跡(馬隠し砦) 端小屋 曲輪④の南端の堀切f  崩れているが④側には石積がある
 曲輪④は周囲に狭いながらも帯曲輪を備えていて、端小屋の中では守りが一番厳重でした。堀切fの④側の法面には石積が有りました。一部は崩れていましたが、帯曲輪と相俟ってこの曲輪が端小屋の中で最も重要だったことと、北に向けて備えていたことを物語っているように思いました。

馬隠し遺跡(馬隠し砦)に於いては、当初は北方の木曽川方面からの敵に備えた土豪の詰城として、住民も避難する端小屋部分が築かれたが、後に南からの大きな勢力に備えた「戦いの砦」として大小屋を築いたという、主な目的と時期が異なる二つの遺構が一つの尾根に残されたという想像をしてみました。
 南から来る大きな勢力は岩村を支配下に収めた武田税でしょうか。

遺構が完存の大小屋、古いタイプの端小屋。いろいろと想像力を掻き立てられる楽しい見学が出来ました。