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近江・補陀楽寺城 市場陣山城と一体か? 残された土塁の差が見どころ

2020-12-19 | 歴史

補陀楽寺城は滋賀県甲賀市甲賀町大原市場にあります。
 付近の市場陣山城の見学に訪れた際に、市場陣山城の草刈りをされていた方に「公民館のところにも土塁があるよ」と教えていただきましたので見学に立ち寄りました。資料は(1)現地案内板 と (2)帰宅してから確認した「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」です。(1)によれば補陀楽寺の歴史は平安時代まで遡るので、城として稼働したのはずっと後の時代ということのようです。 ※市場陣山城は→こちら


補陀楽寺城 市場陣山城の至近距離に所在する平地城館 
 市場陣山城の至近距離に所在するため、市場陣山城と一体になった城館という見方もあるようです。付近には杣街道が通り、古くから人の往来が多く、商業地としても栄えた場所のようで「市場」を含む地名が複数残されていました。


補陀楽寺城 東辺と北辺の土塁が残る。南辺は鉄道で消滅? 西辺は公民館が建つ
 (1)によれば、公民館敷地は明治時代に尼僧が住居を構えていたと伝えられていると有り、その頃には西辺土塁③の多くの部分が失われていたと思われます。南側にも土塁④があったようですが、JR草津線の敷設工事で失われたのでしょう。東辺土塁は北東隅①が後世の通路として開口され、南端部は道路で切断されていました。北辺の土塁は基底部の形状をほぼ保っていると思われますが、高さ方向はかなり削られているように見えました。 資料(2)によると補陀楽寺城は半町(約50m)四方の方形館であったとされます。


補陀楽寺城 東辺土塁の北東隅の開口部① 東から 右手に北辺土塁
 資料(2)によると、発掘調査では土塁の下に溝が検出されたようで、土塁が築かれるまでは溝で区画された補陀落寺の境内地だったのではないでしょうか。


補陀楽寺城 北辺土塁の西端部② 奥の公民館方向に東辺土塁③が延びていた
 北辺土塁の西端部②から公民館方向に近年まで土塁③の一部が残っていたようですが、今は失われています。北辺土塁の西端部②が盛り上がって高くなっています。


補陀楽寺城 北辺土塁の西端部の盛り上がり② 東から
 北辺土塁の西端部②は櫓台状に盛り上がっていました。資料(2)によると土塁の高さは盛り上がった部分ぐらいまで高かったようなので、他の部分が風化などで低くなった姿のようですね。


補陀楽寺城 北辺土塁 風化はあるがよく残っている 西から
 北が高く南の杣川に向けて下がる傾斜地に城地があるので北辺土塁の北側からの高さは低く、城内側から見ると高くなっていました。写真の右側が城内です


補陀楽寺城 東辺土塁 樹木と笹で見通しが悪い
 東辺土塁も風化が進んでいるようで、土塁の輪郭は不明確で低いものでした。資料(2)で市場陣山城とは築城主体が異なる可能性があるとされるのは土塁の規模が違うためのようで、確かに市場陣山城の土塁の方が格段に大規模で堅固でした。


補陀楽寺城 東辺土塁の南端部 道路で切断され断面はコンクリートで養生されている 東から
 鉄道敷設のため城域の南部は改変され、古い杣街道⑤の代替道路が土塁を削り取って設けられたようでした。南辺土塁④も鉄道敷設で消滅したと思われるので、想定して書き入れてみました。


補陀楽寺城 補陀楽寺の山門 この付近の北辺土塁に虎口があった?
 資料(2)では、古い杣街道⑤に向けて虎口が開いていたと想定していますが、そうだとすると山門あたりに虎口があったかもしれません。写真の右手にJR草津線、道路は鉄道敷設に伴った、古い杣街道の代替道路と思われます。

補陀楽寺城と市場陣山城の関係は明確では有りませんが、一般的には詰城と居館の関係とみてもよさそうでした。土塁規模と堅固さから見ると市場陣山城と補陀楽寺城は稼働時期の違う城だったようにも見えました。