根羽砦は長野県根羽村取手にあります。
武田信玄が伊那谷から南下し、一帯を領有し根羽砦を築いたと伝承されています。地名も取手となっており、信玄の手植えとされるイチイの大木が峠に有りました。
付近には三方ヶ原の戦いで勝利した信玄が病を得て甲斐に帰る途中で落命し、葬られたと伝承される信玄塚があり伊那街道沿いの豪族の館跡も有りました。また横旗の地名には信玄の死を悼み軍旗を寝かせて横にして行軍したという伝承があります。 ※信玄の伝承には諸説あり!
今回の資料は「信濃をめぐる境目の山城と身の・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015 です。
根羽砦 伊那街道沿いに新国道153号が出来て根羽砦は一部改変されたが旧道も一部残る
根羽砦は南向きに構えた街道を扼する砦として築かれたようで、旧道は砦の南下を巻くように上り砦の脇を抜けて伊那谷へ向かっていたようです。街道の名前は三州街道とも飯田街道ともいいますが、伊那街道が一番古い呼び名のようです。
根羽砦 街道は砦の南下を巻くように登っていたようだ。親旧の道が入り交じる交通の要衝だった
砦の西側が153号で開削され失われていますので伊那街道aのルートは一部想像図です。戦後まもなくの空中写真を見ると何本もの道があったようですが、付近の住民が利用した道も含まれているように見えます。
図2の④が峠だったらしく、石碑や信玄の手植えのイチイの大木などが有りました。見たところbが最も古い街道の道に見え、④の東側を通る街道は旧153号ができるまでの伊那街道の整備された峠道だったと思われます。
根羽砦 砦橋から153号で開削された地形を復元してみる 北から
国道153号で開削された右側に④、左側に3郭があります。3郭は西に伸びて④付近まであったのかもしれません。
根羽砦 大堀切① 南から 地元の生活道路として使われた時期があったかも
堀切①の左右に石積が見られますが、堀切の遺構というよりも道路の遺構のように見えました。江戸期以降では街道として使われた時期があったかもしれませんね。
根羽砦 堀切② 平場2、1への防御施設として構えられている
根羽砦は小川川へ突き出した急角度の法面の尾根先端に築かれていますので、尾根西側からの侵入に対して堀切①と堀切②で厳重に対処していました。
根羽砦 砦の南面は長短三段の腰曲輪③で備えている
根羽砦は南側の三河山間部に対する守りが役割ですから、南側の法面に狭い腰曲輪を3段設けて守りを強化していたようです。
根羽砦 1郭 周囲に土塁はない 諏訪社が祀られている(現役)
1郭が主郭と思われますが土塁は有りませんでした。曲輪の周囲に犬走程度の幅の狭い平場が有りました。
諏訪社が祀られており、今もお参りされているようでした。諏訪社というところが信玄と結びついているように思えました。
根羽砦 3郭は国道153号の工事で削り取られて原型は不明
3郭は道路工事で削られて、途切れた地形になっていました。ヒョットすると、ある時期には3郭を通る道Cがあったかもしれません。資料によると3郭にはもう一条の堀切が考えられるとありましたが、153号線で消滅したようです。
根羽砦 ④付近 南から 信玄手植えのイチイの大木、石碑 旧街道等がある
写真の中央にイチイの大木がそびえていました。付近でお目にかかった古老の話によると武田信玄が植えたものだと伝えられているとのことでした。石碑には山縣能登守則長殿墓と刻まれたものがありました。このあたりでは信玄と武田氏の人気が高いのを感じました。帰宅してからイチイの大木の情報をネットで調べてみると、樹齢は300年となっていました。
写真の左手には古い峠道と思われる地形が残っていました。④の右側には石積と道が見えていますが、古老のお話では153号ができる前は石積が両側にあったそうです。
根羽砦 伊那街道 峠の北側から道を見る 左手奥に城址
伊那街道は北の一之瀬の集落に向かってのびています。今は国道153号から道路になっていますが、旧街道と更に古いと思われる旧道が残っており確認できました。
根羽砦は道路の新設で一部が改変を受けていましたが、残存部分の遺構の残りは良好でしたので結構楽しめました。関連する街道と道は複雑に入り組み、一部が消滅していましたが、往時を想像しながら興味深く見学ができました。