修善寺城は静岡県伊豆市修善寺にあります。修善寺といえば弘法大師によって開かれたと伝わる温泉や源頼家終焉の地としても歴史に名をとどめています。
修善寺城の歴史も古く、南北朝期中頃に鎌倉公方に反旗を翻した畠山国清によって金山城、三津城とともに築城され、修善寺城を主城とし金山城、三津城には国清の弟を配したとされます。鎌倉公方方は大軍で押し寄せ、畠山方は金山城、三津城を放棄し修善寺城に籠城したが、ついには降伏したとされます。
今回の資料は (1)「静岡県 古城めぐり」静岡新聞社刊1984 (2)「静岡の山城ベスト50を歩く」サンライズ出版刊2009 です。
修善寺城 図1 狩野川と桂川に挟まれた山地の最高所に築かれた 現代の改変がある
落城後の城の来歴ははっきりしないようですが、現代になって公園化され西側山麓からはロープウエイが設けられ、最高所には無線設備が建設されました。
今はロープウエイや公園関連施設が撤去され、ロープウェイ駅舍③が残され、最高所のⅠ郭には無線設備が在りました。
修善寺城 図2 公園化で改変されたが、およその遺構は確認できる
資料(1)によれば、南側の城山神社の境内地に居館があったと推測されていますが、ここからA、B2本の道がありました。今回はAから上りBで下りました。山上には公園化されたときには飲食の施設も在ったようです。ロープウェイの山上駅舍③が残されているあたりに広場が有りましたが、この辺りの城郭遺構は失われたようでした。
修善寺城 南側の山下から 山頂部に無線塔が見える
修善寺城 南側山下の城山神社 居館跡と考えられている
資料(1)では居館が在ったと推測されていました。付近に駐車スペースが有りました。
修善寺城 山上広場の勝運寺② 裏に土塁①が見える
図2の勝運寺②の南側裏に土塁①がありました。その南側には南曲輪Ⅲが尾根上に伸びていました。
修善寺城 最高所のⅠ郭 公園化と無線設備で遺構は失われたが、平面地形はほぼ残る?
周囲の樹木がなければ360°の展望が開け、狩野川沿いの北から攻めてくる敵も一望できたと思われます。単独峰の急峻な斜面で守られた山城も兵糧が尽き、十ヶ月近く後に降伏したとされます。
修善寺城 北曲輪Ⅱ 平場の稲荷社⑤と平場の石積 南から 稲荷社に関連した石積かも
もともと在った平場に稲荷社の造営をしたと思われ、その時に周囲の改変があったかもしれませんね。
修善寺城 石積がアチコチで見られるが城郭遺構とは断定し難い
石積は随所で見られましたが、城郭かどうかははっきりしませんでした。一部には公園化による石積とわかるものも在りました。
修善寺城 北曲輪Ⅱ 北端のひな壇状平場⑥ 南上から
北曲輪Ⅱの尾根先端部には、ひな壇状の平場が在りました。平場は北尾根からの侵入を防ぐ防御の要としての切岸を削り出すために設けられたと思われます。
修善寺城 北曲輪Ⅱの平場④ 北上から
図2の平場④は腰曲輪と言っても良い遺構で、修善寺城では⑥と④が最もわかりやすい遺構でした。
修善寺城は、中心部の改変が激しかったですが周辺の遺構はかなり残されていましたので、かつての姿を想像しながらの見学が出来ました。
ロープウエイが廃された山上駅の駅舎が物寂しさを漂わせているのが、夢破れたいにしえの畠山氏を想わせる存在でした。