城と歴史歩きを楽しむ

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伊勢・山本城 コンパクトで遺構がよく残る見所の多い城郭 井戸には今も水が豊富

2021-06-14 | 歴史

山本城は三重県鈴鹿市山本町にあります。城主は西約14kmの浜田城の原田氏の一族と伝わります。
 猿田彦神社の本宮の椿大神社の至近距離に所在していますので、往時は神社領だったのではないか、田原氏が勢力を拡大する中で神社領を横領して一族を配し山本と名乗ったのではないかと想像してみましたがどうでしょう。
 山本城は資料(1)によれば天正十一年 秀吉の伊勢攻めの時に筒井順慶が付近の民家とともに焼き払ったとされます。
 今回の資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 と (2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008です。


山本城 近年、高速道路が開通しICもでき、見学に訪れやすくなった
 椿大神社は猿田彦神社の本宮で、背後の山をご神体とするまさに大神社です。その足下に広がる集落の中心に山本城は所在していました。今は城址の南麗に西岸寺があり、城址東側の道路を挟んだ学校跡には遺構は見当たらないとされます。


山本城 見学路はAまたはB 城道はa及びb Ⅵの東と南の尾根はほぼ自然地形
 資料(2)によると、城道はa及びbとされ各々の城道は図2に赤矢印で示したようなルートが想定されて虎口①からⅠ郭(主郭)に入ります。資料(1)には南側の土塁の部分に石垣が在ったとの聞き取り情報が載っていましたがどの部分のことかわかりませんでした。今回はAから登ってBに下るルートで見学しましたがⅥとⅥの東側と南側の尾根はほぼ自然地形で、掘切③で城域が区切られているようでした。


山本城 掘切③の北端部  南から
 掘切③は東尾根と城域を断ち切っていました。尾根Ⅵの東と南はなだらかな自然地形で城郭遺構はなさそうでした。


山本城 Ⅰ郭 虎口① 東から 奥に城址標柱が立つ
 Ⅰ郭は西、東、北 の三方に土塁が築かれ南辺は小平場が張り出しⅢ郭ーⅡ郭の城道を監視していたようです。
 

山本城 Ⅰ郭煮立つ城址標柱
 「天正十一年岐阜城に赴いた留守に秀吉軍に焼き払われた」とありました。


山本城 Ⅰ郭 西辺土塁    南から     奥に北辺土塁が見える  土塁の残りは良好で見どころ
 山本城のⅠ郭の構えや周辺の状況から、どの方向に備えていたのか、どの城道がメインだったのかハッキリしませんでした。強いて言えば井戸2の近くを通るaのルートよりも、虎口②が明確なbのルートがメインだった可能性が高そうに思いました。


山本城 Ⅰ郭の井戸1  本当に井戸?
 Ⅰ郭に資料(2)で井戸と呼ばれる土坑が在りました。土坑が井戸の例も多いと思いますが、そうではない例も結構あるようなので、土坑(凹み・穴)としておいてもよいのではないかと思いましたがどうでしょう。Ⅰ郭の北東隅は土塁が開口しているので、関連があるかもしれません。


山本城 Ⅲ郭西側の掘切地形は虎口②か? 
 Ⅲ郭西端部の地形は虎口状をしていました。掘切のようにも見えましたが、城道bの虎口と見て良さそうでした 。虎口②を西に出た城道のルートがどう延びていたか想像しながら見学しました。
 ※写真の土塁に石垣が残っていたのかもしれませんが今は見当たりませんでした。


山本城 Ⅲ郭 東から 右手上にⅠ郭
 虎口②はⅢ郭西端部にあり城道は虎口②からⅢ郭に入ってⅡ郭へ抜けます。この間、侵入者はⅠ郭南辺の張り出した平場からの攻撃を受ける形になっていたようです。


山本城 Ⅴ郭(井戸曲輪) 井戸の東西に土塁がある 今も水を湛えている 西から 見どころです
 Ⅱ郭北側に井戸曲輪がありました。井戸2の東西に土塁が築かれ、井戸を守る形でした。


山本城 井戸曲輪Ⅴの井戸2  今も水を湛えている 北から
 井戸2は今も水を湛えており豊富な地下水を思わせました。井戸2の豊富な水量を見ると、Ⅰ郭の井戸と言われる土坑の意味合いがますます?でした。

山本城は小規模な城郭でしたが遺構の残りがよく楽しく見学ができよかったです。
 ※椿大神社に参拝し、山本城見学は城址の近くにある神社駐車場の一つを利用させていただきました。