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近江・打越城 隠岐城館群の一つ。地主さんの説明で改変前の状況が把握出来てラッキー!

2021-06-10 | 歴史

打越城は滋賀県甲賀市甲賀町隠岐にあります。付近には隠岐城を筆頭に七城が存在し、隠岐城館群と称せられ、打越城もその一つです。隠岐の地名は、近江の名族佐々木氏の一族が隠岐国守護となりその末裔が近江に戻り隠岐氏を名乗り一帯を領して地名も隠岐としたと伝わります。
 今回の見学では、城址の一角にお住まいの地主さんにお目にかかり、近年の城址地形の改変などを丁寧に説明していただきながら見学させていただきラッキーでした。
 今回の資料は(1)地主さんの説明 と (2)「甲賀市史 第七巻」 甲賀の城2010 です。
※隠岐城館群の砂坂城は→こちら



打越城と周辺 隠岐城と佐治川を挟んだ六っの城館、合わせて七城で隠岐城館群が構成される
 隠岐城館群の名称は近年のもので、往時に城館群として各城館の繋がりがあったのかは明確ではなさそうです。
打越城は佐治川に削られて尾根状の地形となった段丘上にありました。他の六城が所在する地形も同様の地形のようでした。この付近は古琵琶湖の湖底だったところで、独特の地形と地質のようです。


打越城 二重の土塁で囲まれた単郭の城郭  地主さんの説明で多くの改変状況がわかった
 ⑪⑫の横堀状地形、①の土塁地形、⑥の平場、③の残欠土塁の土坑④、⑩の横堀aの段差、土塁②東端部の地形、⑭の虎口状地形 などなど お聞きしないとわからない改変状況が多数ありました。
 地主さんは地域の歴史に詳しい方で、ガイドさんもやっておられるとのことでした。


打越城 西下 道路からの全景      比高約30mの尾根状の段丘上にある
 付近一帯は古琵琶湖の湖底の堆積岩で、乾燥するとボロボロになるということです。


打越城 Ⅰ郭 南辺の土塁開口部⑭ 後世の改変による開口の可能性がある
 地主さんのお話では、土塁はⅠ郭の四周を囲んでいて「南辺の開口部⑭は後世の改変だと思われる。往時の虎口は東辺に在ったのではないか」とのことでした。写真では土塁開口部の手前に横堀地形南端の穴が見えている。


打越城 Ⅰ郭北東隅  横堀aと土塁b、左手上に土塁②   東から
 Ⅰ郭北辺の横堀a、土塁bの遺構はよく残っていて見どころでした。竹も適度に伐採されていて見やすくなっていました。歴史好きの地主さんのお陰ですね。


打越城 北西隅の横堀⑧と残欠土塁⑦ 北から
 往時は土塁bと土塁⑦は繋がっていたと思われますが、北西隅の法面が崩落したため角の土塁が失われたように見えました。


打越城 中央に土塁b 右手に香蓮寺と墓地⑬ 左に浅い横堀a 南から
 土塁bの東辺の中間点には張り出し地形がありました。いわゆる横矢掛りの地形のようですが、どうでしょう。地主さんの「虎口は東辺にあったのでは」との関連があるかもしれませんね。今は小堂が祀られていました。



打越城 堀切aの東辺南側が埋まって浅い。途中に段差があり北側が深くなる 北から
 堀切a東辺の南側部分の現況は2つ前の写真の様に浅くなっていましたが途中に段差がありそこから北は深くなっていました。 
 地主さんにお聞きすると「歴史に興味がなかった頃、私が切った木や竹を放り込んだ」とのことでした。疑問が一つ解けました。


打越城 Ⅰ郭 北辺の横堀状地形⑪ 左に土塁② 西から
 土塁の内側に横堀地形⑪があるのは疑問でした。Ⅰ郭内の排水溝のようでもありますが、それにしては広すぎるようです。地主さんにお聞きしたところ「毎年冬に、ここから土を採って下の田んぼに客土として入れていた跡だよ」とのことでもう一つ疑問が解けました。


打越城 Ⅰ郭 東辺土塁① 土塁の左に堀状地形⑫  南から
 土塁①は幅広で盛り上がっていました。地主さんの説明では「過去に良いタケノコを採るため竹林の表土を剥いでここに積み上げていたので原型は失われた」とのことで、不自然な形の土塁①の謎が解けました。
 土塁①の西側に⑪と同様の堀地形⑫があり南端部が深く穴状になっていましたが、穴が城郭遺構かどうか不明でした。


打越城 Ⅰ郭 南西隅の残欠土塁③の土坑④ 意味不明で疑問
 Ⅰ郭は四周を土塁で囲んでいたとされますが、地主さんによると田んぼへの客土のため土塁からも土を採ったとのことで、土塁のかなりの部分が失われていました。残欠土塁③も採土のため削られていましたが、残欠部に土坑④がありました。よくある狼煙穴、井戸などとは違うようです。何の土坑でしょう?


打越城 Ⅰ郭 南辺下に残る芋穴⑤ 今は入口が崩れかかっている 土坑④との関連あり 
 地主さんに土坑④についてお聞きしたところ、通路⑭を下って芋穴⑤へ案内していただきました。「この芋穴は深く、土坑④の下まで続いている。この地域は古琵琶湖の湖底堆積地質で岩石は水分を含んでいると強度があるが、乾燥するともろくなる性質がある。そのため芋穴を掘って時間が経過し乾燥したので土坑④の下の芋穴が崩れて土塁③に穴があいた」と説明して下さいました。またまた疑問が解けました。
 ※芋穴:貯蔵庫

その他
 図2 平場⑨:一段低い平場       平場⑥:Ⅰ郭西辺と横堀、土塁を削り取って平場を造成し茶畑になっていた。