代官屋敷は愛知県豊田市大沼町大官屋敷にあります。屋敷名は代官屋敷ですが地名は大官屋敷です。地元の旧村誌によれば坂東作右衛門が城主であったと伝わるようですが詳細は不明です。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 と (2)「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993 と (3)㈱葵エンジニアリングのホームページの「川名が語るふるさとの歴史」 などです。
代官屋敷 天正二年、武田軍が田折村から大砲を撃って攻め落としたとの伝承が有る
資料(3)によると代官屋敷の北約3.3㎞、大沼城の北2.5kmほどの場所に通称「右衛門殿ウエモント」という地区があり右衛門殿ウエモンド川があり代官屋敷の代官坂東作右衛門との関連の可能性が述べられています。古い時代に一帯を支配した坂東作右衛門なる土豪の存在が有り、後に外部勢力が大沼城を坂東作右衛門の領地の中央部に築いたのではないかと想像してみましたがどうでしょう。
その後、天正二年の武田軍の三河侵攻時には武田軍が代官屋敷の南側の田折村から大砲を撃って攻め落としたとの伝承も有るようです。 ※大沼城は→こちら
代官屋敷 Ⅰ郭を中心に方形の遺構が残る 帯曲輪状の段々地形が耕作地だったともいわれる
代官屋敷の周囲には帯曲輪状の平場が何段も取り巻いていました。一部には土取りも行われ、改変もありましたが中心部の遺構はよく残されていると思いました。代官屋敷からは詰城とされる代官屋敷城へ尾根筋を登って見学ができます。 ※代官屋敷には301号の路肩Ⓟに駐車して道アをたどりましたが駐車は自己責任で!
代官屋敷 Ⅰ郭と周辺の平場は後世に耕作地として利用されていた 今は植林が行われている
南東部は土取りが行われているために遺構の一部が失われていましたが、Ⅰ郭周辺の帯曲輪状の平場はよく残っていました。後世に耕作地としての利用があったようで、段々の平場のどの部分が城郭遺構か確認が難しくなっていました。城郭遺構跡と言われる畑地は各地の城址で多いのですが明確に城郭遺構とは言い難い場所も多いようにも思います。
代官屋敷 堀切① 東から 左上にⅠ郭 案内板が随所に立てられている
北側尾根を断ち切る浅い堀切がありました。堀切は浅いものでしたがⅠ郭の北辺を守る切岸をしっかり造り出していました。屋敷と名付けられていますが、Ⅰ郭は城郭のような切岸が四周に設けられて守りの要となっていました。
代官屋敷 虎口と土塁 北東下から
Ⅰ郭には虎口⑭で入りました。写真の虎口の左側に土塁が写っています。Ⅰ郭の土塁は周囲を取り囲んでいたのかもしれませんが、今は一部にしか見られませんでした。後世の耕作地化で失われてしまったかもしれませんね。
代官屋敷 Ⅰ郭 後世の植林 で遺構は見当たらない
Ⅰ郭の平面図的な地形は往時の姿をほぼとどめていると思われますが、後世に耕作地として利用された可能性があり曲輪内は多少の段差を残すだけとなっていました。発掘調査をすると柱穴などが検出されるかもしれませんね。
代官屋敷 Ⅰ郭北側のⅡ郭 北東から
Ⅰ郭の三辺を帯曲輪状のⅡ郭が取り巻いていました。Ⅱ郭も 植林が行われていましたが城郭遺構がほぼ残されていると思いました。
代官屋敷 Ⅱ郭北西隅の土塁③と北側の切岸 東から
Ⅱ郭の北西隅にはL字型の土塁③がみられました。土塁はⅡ郭全体を取り巻いていたかもしれませんが現在はこの部分だけでした。 北側の切岸は自然地形に近そうでしたが急角度で高低差のある地形でした。
代官屋敷 Ⅱ郭南辺下の二段の平場⑤と⑥ 西から
平場⑤と⑥の東側は後世の土取りのために失われていましたので原形の確認ができませんでしたが城郭遺構のように見えました。
代官屋敷 平場⑧ 東から 帯曲輪にも見える 今は植林されている
Ⅱ郭の西側から南側にかけて帯曲輪状をした平場が何段も有りました。後世の耕作地として新たに造られたものと、城郭遺構の平場を耕作地として利用したものが混在しているかもしれませんが表面観察からは判断が困難でした。
代官屋敷 右にⅣ郭 左手上にⅢ郭 南から 奥に平場⑩と⑪
Ⅱ郭の東部には一段下がってⅢ郭、さらの一段下がってⅣ郭が有りました。ここも城郭遺構にみえました。
代官屋敷 Ⅰ郭と東側の2段の帯曲輪状の平場⑩と⑪ 南から
Ⅰ郭の東辺下には帯曲輪状の平場が2段設けられていました。城郭遺構と見ても良さそうでしたが今は植林がされていました。
代官屋敷は後世の耕作地化と植林などで、往時の姿をそのまま見ることが難しい状態だとされますが、現地で見ると大きく改変されていないようにも見え、とても興味深い見学ができました。
代官屋敷と代官屋敷城をセットで見学しましたので、居館と詰の城の関係性などとても興味深く楽しく見学が出来てよかったです。 ※代官屋敷城は→こちら