岩津城は岡崎市岩津町にあります。松平氏三代目の松平信光が松平郷から進出し、後の徳川家康につながる発展の礎を築いた歴史上重要な場所です。2023年3月 東海古城研究会の見学会で近年整備されて真の姿を見せる岩津城と信光が創建した信光明寺、信光に至る松平三代の墓所、初代親氏の庶子と言われ信光に従った酒井広親、信光に従って活躍した成瀬政直の墓などを見学しました。今回の参考資料は 見学会の当日資料です。 ※岩津城その1は→こちら
岩津城 矢作川の舟運によって栄えた岩津を信光が領して発展の礎を築いた
家康の将軍就任に関連して「源氏」の血筋が強調されましたが、岩津に残る諸資料では、信光のころは都との結びつきが強く、徳川の家紋の三葉葵のルーツは、当時名乗っていた加茂朝臣から加茂神社の「二葉葵」の可能性が否定できないようです。信光が岩津に進出したとき、子息に与えた岩津七城の伝承が残りますが、今は多くが失われています。 ※百々城(青山氏)は→こちら
岩津城 信光明寺は信光創建 往時は信光の館城が隣接して在ったとも
信光が岩津に進出して岩津城を築いたとされますが、資料によると当初は信光明寺のある弥勒谷に館城を構え、城山には物見台程度のものが在ったかもしれないとされます。館城に隣接してお寺(信光明寺)を創建した可能性が記されていました。今見る岩津城は小牧長久手の戦い前後に家康の命によって大規模な城郭に造りかえられたようで、それ以前の姿は失われたとされます。
信光明寺 親氏 泰親 信光 の松平三代の墓所が在る 隣に成瀬政直の墓もある
信光明寺は信光によって創建され、観音堂(1478年建立)が奇跡的に戦火を潜り抜けて往時の姿を見せていました。松平三代の墓所は後の時代に造営されたもので、信光に従って活躍した成瀬氏の墓が死後も付き従うように隣接してありました。
酒井広親石宝塔 信光明寺の裏鬼門にあたる場所に祀られている
松平初代親氏の庶子と伝わる酒井広親の石宝塔が信光明寺の南西方向にありました。後述する成瀬氏の屋敷地と併せて考えると、この付近に酒井氏の屋敷地が在ったのではないかと思いましたが、確認はできないとのことでした。附近は小学校の造成でかなり改変を受けている模様でした。※整備は地元の「岩津松平氏かがやきの600年」推進懇話会の皆さんによって行われています。
岩津城 小牧長久手の戦い前後に秀吉の東進に備えた姿がよみがえり見どころ多数
以前の岩津城は竹ヤブと樹木で見通しが効かず、遺構を見通すことが難しかったのですが、地元の方の尽力で整備が進み、今回の見学では遺構を遠くまで見通すことが出来ました。何回も見学に訪れたことのあるベテラン会員さんも岩津城の規模の大きさに驚いていました。
岩津城 Ⅵ郭 梅園が在ったが今は立ち入り禁止
岩津城の見学路入口はイの位置にありましたが最近になって道が整備されウの位置からも入れるようになりました。資料によると道aは後世の道で、往時はなかったようですので、Ⅵ郭北側付近が一部改変を受けているようでした。
岩津城 左に道a 右に段々の石垣と奥上にⅥ郭 西下から
道aは岩津天満宮や東にある真福寺へのお参りの道として地元で利用されていたのではないかと思いますがどうでしょう。右側の石垣の段々平場は後世の耕作地に関連したものとのことでした。
岩津城 Ⅰ郭南虎口 奥に土橋①と馬出A Ⅰ郭内の北から 見どころです!
岩津城の城道は西側のⅦ郭方面からの道もあったようですが、諸国古城之図を見ると大手道はⅥ郭を南から入り馬出A、土橋①を通り、南虎口からⅠ郭に入ったように見えます。馬出Aや大きな堀②、③、土橋、Ⅰ郭土塁などを見ても南に向けての備えが非常に厳重ですね。※付近に見られる石仏は大正時代の弘法めぐりです。
岩津城 大堀切② 西から 奥に土橋① 見どころです!
以前は見通せなかった大きな堀切が全部見通せました。幅の広い堀と急角度で高い切岸は圧巻で見ごたえありの見どころでした。伐採して所々に積まれた竹や樹木の多さにも驚きました。
岩津城 Ⅰ郭南西隅の切岸 10mを優に超す高さがある ここも見どころです!
土の城の「守りの要は切岸」と言われますが、まさにその言葉がピッタリの切岸で、急角度で高い切岸は見どころでした。
岩津城 Ⅲ郭の枡形虎口 ア 北から
Ⅲ郭の枡形虎口からⅤ郭を経由しⅦ郭方向への城道が在ったとされます。一部に改変が在る為、明確に城道をたどる事が出来ませんでしたが、興味深い遺構が左右に連続していました。この辺りにも伐採した樹木や竹が山積みでした。
岩津城 広々としたⅢ郭 西から 奥にⅠ郭 またまた見どころです!
所々に竹や樹木を残す整備が行われていますが、見通しが効くようになって岩津城の規模の大きさが実感出来ました。竹を切った量の多さがスゴイですね。
岩津城 Ⅴ郭 北から 左側に高い切岸がある 今まで見たことない!
Ⅴ郭の以前は密集した竹ヤブで、ここまで見学に入る人はほとんどいなかった場所ですが、整備が進むと両サイドに急角度で高さのある切岸を備えた、広大な曲輪だったことが目に見えるようになりました。今回の見学会でベテラン会員さんが一番ビックリした場所のようでした。
岩津城 竹や樹木が切り払われ遠くが見通せる
秀吉軍が攻めてくるとすれば矢作川を越して西と北から来ることが想定されます。西側の竹や樹木が伐採され、眼下に矢作川が、天気が良ければ遠くに鈴鹿の山並みや関ケ原、伊吹山まで見渡せるようになりました。
岩津城 Ⅶ郭 南から 近年病院まで病院が建っていた
病院が建っていたⅦ郭はこれまで城郭遺構と見られていませんでしたが、資料によると最近になって屋敷地の可能性が指摘されているとありました。確かに、ここからは眼下に岩津の町が見渡せますので、後ろに詰城を設ければ居館として絶好の場所です。古文書の記載から成瀬政直の屋敷説と、立地から信光の居館説があるようですが、両説とも確証は得られていないようでした。
何度も訪れている岩津城ですが、整備が進みその規模と興味深い遺構がハッキリ確認できるようになり、大満足の見学会となりました。整備して下さっている地元の皆さんに感謝です。
※岩津城の整備は地元の「岩津松平氏かがやきの600年」推進懇話会の皆さんによって行われています【ホームページは iwazujo.com で検索】。