天正三年五月 武田勝頼の大軍に包囲された長篠城の籠城将兵400人は次第に追い詰められ、鳥居強右衛門が単身夜陰に紛れて長篠城を脱出し、岡崎城の信長・家康に救援を訴え取って返したと伝わります。この決死の脱出行と味方に朗報を届けて死に至るいきさつが戦国の世で敵の将兵にも武士の鑑として賞賛され、強衛門の磔の図が武田の武将の背旗に描かれ今に伝わりました。
当ブログでは強右衛門が駆け抜けた道を その1 その2 その3 とたどってきましたが、今回は その4として、宮崎村明見から岡崎城までの道を地図でたどります。今回の参考資料は (1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005 (2)2万分の1 国土地図 明治23年頃測図 などです。※その1→こちら その2→こちら その3→こちら
『落合左平次道次背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図』 東京大学史料編纂所蔵 抜粋
長篠城址史跡保存館の強衛門がたどった道
強右衛門の道には諸説ありますが、当ブログでは長篠城址史跡保存館の図(図1)を基本として、その1からその3までたどってきました。今回も図1のルートを基本に岡崎城までをたどりたいと思います。
図2‐1 明見から淡渕までの旧道
上図は、その1で紹介した明見付近の図で、強衛門の道はC→bで峠を越えて淡渕に出る道だったとしました。今回は淡渕からスタートして岡崎城までをたどります。なお 明見はこの時、長篠城で籠城している奥平氏の本拠地で、明見からは将兵の多くが長篠城へ出陣し籠城していました。したがって 強右衛門は明見で馬を借り岡崎までは馬を使ったと考えられるのではないかと思います。明見の人たちも、強衛門が多くの明見の身内の人たちを助けるための行動を見過ごすことはなかったと思いますがどうでしょう。
強右衛門の道 淡渕から生平まで
古くからの道は、時代とともにその経路に変化が見られますが、明治の地図に残る道が往時の道に近いと思い、そのルートを想定してみました。現在に残る道もありますが、今は失われた道、付近に新しい道が出来た等の変化もありました。川を挟んで道BとCがありましたが、川の南側の道Bが図1に示されている道と思われます。川の北側には古刹の天恩寺があり家康に関連する伝承もありますので門前を通る道Cの可能性も濃厚です。
強右衛門の道 生平から岡崎城へ
生平から岡崎城への道Aは概ね残っていました。岡地区にある岡城は家康が上洛時に幾度も宿泊したと伝わりますので、強右衛門も岡城沿いのこの道を通ったと想定しました。丸山付近で乙川を渡りますが、(旧)東海道もこの付近で乙川を渡っていました。岡崎市内に入ってからの道は(旧)東海道付近だったのではないかと思いますが、城下町として道が整備されたのは家康の関東移封後の田中吉政の入部以降とされます。
試しに強右衛門が長篠城から岡崎城を往復するのに要した時間を想定してみました。
長篠城から脱出して岡崎城まで
長篠城 → 川 → 広瀬上陸 約4.3㎞ 所要時間 川下り 時速2㎞ 約2時間
広瀬 → 雁峰山 約6㎞ 所要時間 登り 時速4㎞ 約1.5時間
※雁峰山で脱出成功の狼煙を上げる(狼煙が見える早朝まで待機)
雁峰山 → 明見 18~19km 山道が多い 時速4㎞ 4~5時間
明見 → 岡崎城 約23km 所要時間 殆ど平地 馬(常歩)で時速6㎞ 約4時間
※午後の早い時間に岡崎城に到着
合計 距離 約52㎞
岡崎城から長篠迄
岡崎城 → 明見 約23㎞ 馬(常歩)で時速6㎞ 約4時間
明見 → 雁峰山 18~19km 山道が多い 時速4㎞ 4~5時間
※午後雁峰山から「援軍が来る」の狼煙を上げ→長篠城を目指す
雁峰山 → 長篠城近くで武田軍に捕縛される 約6㎞ 下りが多く 時速6㎞ 1時間
岡崎城からの合計所要時間 約9~10時間
鳥居強衛門の活躍によって、長篠城が守り抜かれ、その後の長篠設楽原の徳川・織田連合軍の勝利に貢献したとされます。