堤城は静岡県菊川市下平川にあります。築城時期は明確ではありませんが1500年前後と考えられているようです。城主は松井氏が今川範国によってここに移されたとされます。堤城は城域の西側を菊川と並行して流れる牛渕川を守りに利用して西側の監視・防衛を役割として築かれたとされます。今回の参考資料は(1)「菊川市の城館 周遊マップ」菊川市教育委員会 (2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978 (3)「今川氏の城郭と合戦 水野 茂 編著2019 (4)「静岡県の城跡 西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022 (5)「遠江国風土記伝」
堤城 付近は牛渕川や菊川の大規模な洪水被害に悩まされ続けた
牛渕川の河川改修や圃場整備は戦後になって行われましたが、それまでは大雨でしばしば大規模な氾濫を繰り返し洪水に悩まされ続けた地域だったようです。
堤城 カラーパンフレット「菊川市の城館 周遊マップ」
堤城は当初、寺屋敷の西側の山上に城が作られましたが(本城山曲輪)、後に東側の山上に千畳敷などの曲輪も作られたという説があります。資料によっては松井氏の移封によって、造りかけの千畳敷の曲輪は未完成で廃城になったという説もあるようです。ただし松井館は先行して千畳敷南側の大手屋敷の地に建てられていたと想定され、発掘調査で当時の遺物や堀跡が大手屋敷周辺で検出されました。
資料(6)によると相良街道が堤城の東側の切通道を通っており堀切と切通道を兼ねていたともいわれます。主要街道だった相良街道は堤城西側の水害多発地の不安定な土地を通るのを避けたのではないかと想像しました。
堤城 相良街道の切通道 南から 10mを越す深さが見どころです
現在は使われていない切通道ですが、地山の岩盤を深く掘り込む難工事を行ってでも切通道が必要だったのは、城址西側は水害で不安定だった為で、安定した相良街道の確保が必要だった為ではないでしょうか。
堤城 千畳敷に残された耕作放棄地の作業用モノレール
千畳敷と周辺の平場は耕作地として戦後も利用されていたようですが、現況は耕作放棄地となり荒れ放題でした。何とか地形を見てやろうと突入を試みましたが、あまりの密集したブッシュで敗退しました。遠江では茶畑や果樹園に改変された後で放棄された城址を多く見かけますが城巡りファンとしては残念ですね。
堤城 千畳敷地区は未完成の曲輪だったか 松井氏屋敷の位置は
前述のように大手屋敷カは実在したと考えられていますが、千畳敷の曲輪群は未完成だった可能性もあります。東端部の切通道エ が東尾根を断ち切る堀切の様に見えましたが切通の方が古くからあり城郭遺構ではないかもしれません。当初の松井氏の館跡の位置は資料によって異なっていて、図ⅱの松井館(推定)と位置図2のアとがありましたが洪水対策等を考えるとアの位置の方が妥当のように思いましたがどうでしょう。
堤城 千畳敷南部 右下の大手屋敷付近を見下ろす
猛烈なブッシュをかき分けて千畳敷の南側から大手屋敷付近が見下ろせる場所にたどり着きました。附近に大手屋敷から千畳敷への大手道があったとされますが確認は困難でした。
堤城 切通が千畳敷の東尾根を断ち切る堀切か
城址南東の志瑞のバス停付近から見ると切通と千畳敷がずいぶん離れているように見え、堀切としての役割は疑問に感じました。なお資料(6)で相良街道(塩の道)は「旧道行き止まり」と記されオの方向が案内してありました。
堤城 墓地イから本城曲輪の小山を見る 南東から
図2のイの平場は霊園と茶畑になっていました。イの南側のア付近に松井館があったとされます。
堤城 本曲輪と千畳敷の間の平場イ 南から
現況の平場イは茶畑と霊園に利用され北端部まで平坦ですが、以前は尾根状の地形が北側に残っていて、二条の堀切地形があったと資料(4)にありました。
堤城 明治22年の地図で旧地形を見る
明治の地図を見ると、イの北側の本城曲輪と千畳敷の間に尾根地形がありaとb二条の凹みが確認出来ました。
堤城 堀切a 南から 右手に土塁状地形
図ⅲの凹みaは現在も堀切aとして確認できました。凹みbは削られて失われていました。堀切aの北端部から本城曲輪の東側に登る道がありました。
堤城 土塁状地形 右に堀切a 南から
堀切aの東側に土塁状地形がありましたが、尾根を削平した時の削り残しで城郭遺構の土塁ではないのかもしれないと思いました。
堤城 本城曲輪の平場② 南から 天満天神宮が祀られている
図2の道ウを登ると本城曲輪の西側に腰曲輪に該当する平場②がありました。道ウの途中には細い平場④があり松井氏墓所となっていました。道ウは本城曲輪の大手道とされます。
堤城 本城曲輪の最高所① 南東から 現況は配水池になっている
平場②からの道を登ると本城曲輪の最高所の城山配水池①がありましたが往時の遺構の姿は確認できませんでした。配水池の水道施設としての機能は現役ではないかもしれません。
堤城 段差のある本城曲輪の平場② 東から 奥上に配水池①
本城曲輪は配水池①を含めて三段の平場で構成されていたようですが、段差の切岸はあまり明瞭ではありませんでした。本城曲輪は西側を監視・防衛する役割があったようですが面積は狭いので、いわゆる詰城で居住は山下の館だったと思われます。
堤城 平場②南辺の堀の痕跡⑤ 東から
平場②の南辺には平場②を断ち切っていた堀切の痕跡とされる凹み地形がいくつも見られました。写真では確認が難しいですね。
堤城 本城曲輪 「富士山の見どころ」表示板
本城曲輪からは富士山が見えるようですが、残念ながらこの日の富士山ばお休み”でした。
堤城 千畳敷が示されていない絵図もある
資料(2)には 堤の城絵図(遠江国風土記伝所載)として堤城の絵図が小さく載っていました。この絵図には千畳敷や大手屋敷は載っていませんが、松井屋敷や春日社は載っていました。明治のころには今で言う本城曲輪のみを城跡と認識していたと判りました。※図ⅳは国立国会図書館デジタルコレクションより引用し北上に90度回転して掲載
堤城は判然としない部分の多い城址でしたが、土地の成り立ちや街道とのかかわりなど興味深い歴史を楽しく学ぶこともでき良かったです。