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井ノ口城 三河 額田郡一揆の拠点 その後の松平・徳川の発展のきっかけとなった

2024-04-15 | 歴史

井ノ口城は井ノ口砦ともいわれ愛知県岡崎市井ノ口町にあります。寛成六年(1465)三河国額田郡で反幕府・反守護のいわゆる「額田郡一揆」と呼ばれる蜂起事件が起こり、この地域で有力な大場氏、丸山氏、梁田氏などが井ノ口城を拠点として、京の幕府へ運ばれる年貢等を略奪したとされます。牧野氏、西郷氏によって井ノ口城は一旦は攻め落とされましたが、大将分のものは逃亡し狼藉を続けたと伝わります。幕府は改めて伊勢氏に命じて一揆の鎮圧を図り、政所執事の伊勢氏は配下の松平氏、戸田氏を用いて一揆の鎮圧に成功します。松平氏、戸田氏はこの功によりこの地域での支配権を獲得し、特に松平氏にとっては三河平定のきっかけとなったようです(一揆の理由・経過等については諸説があります)。今回の参考仕様は(1)「三河松平一族」平野昭夫2002 (2)「愛知県史 資料編18 愛知県史編さん委員会編2003 (3)「新編岩津町誌」新編岩津町誌編集委員会1985 (4)現地案内板 などです。

井ノ口城 矢作川と青木川の流路は往時と大きく変わった
 井ノ口城を巻くように流れていた青木川は1633年ごろに付替えが行われ、往時とは流路が大きく変わりました。三河の大河矢作川も乱流し往時の正確な流路は把握しきれませんが、額田郡一揆の頃には図1の想定の流路あたりだった可能性がありそうです。
井ノ口城 東からの全景 樹木に囲まれている部分が稲荷神社
 現在に残る地名で言うと井ノ口町字辺りが井ノ口城の城域だったと思われますが、樹木に囲まれた北端部の稲荷神社境内が一段高くなっていますので、いかにも城址のようでした。

井ノ口城 Aは環濠跡 井ノ口町の各所で弥生期の土器類が検出された
 井ノ口は北に突き出した沖積台地に環濠Aと台地各所に弥生期の遺物が発掘調査で検出され、台地を取り巻くように環濠が巡っていたと想定されるようです。資料(3)によると往時には楼と赤城には赤城中納言の城があったという伝承があるそうです。「楼」の字名はいかにも城址のようですね。

井ノ口城 北から稲荷神社との高低差を見る
 井ノ口の周囲の土地は少し前まで矢作川、青木川に至るまで水田地帯でしたが、今はすっかり様変わりして、248号線が敷設され店舗や住宅地になりました。往時は稲荷神社の台地と水田との高低差は6~7m近くはあったと思われます。往時は一揆を討った松平信光の岩津城から見えたと思われます。岩津城は→こちら

井ノ口城 台地を取り巻く柿田川 左上に稲荷神社 東から
 柿田川は字池内の湧水を水源とする小川で台地を取り巻いて流れていました。往時は堀の役割を担っていたのかもしれませんね。

井ノ口城 稲荷神社のある台地 東から
 稲荷神社の境内地は水平の面で、東西の両サイドには道路がありました。写真に見えている斜面はいわゆる切岸にあたります。

井ノ口城 今は稲荷神社 南から
 神社境内として守られてきたので、往時の地形を良く残していると思われますが、城郭遺構は見当たりませ
んでした。

井ノ口城 稲荷神社を南東から 両サイドに道路
 稲荷神社の境内地は南側に鳥居があり道路との高低差は1mもないくらいでした。境内地の北、西、東の3方向には高低差がありますが、南は少なかったです。神社の境内から南側の集落方向は平面を削り出し屋敷地となっていて少し低くなったのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。

井ノ口城 字西河原から井ノ口集落との高低差を見る 
 写真の左側の石垣下あたりで環濠が検出されたようですが、今は宅地化されて痕跡も確認できませんでした。坂道の標高差は国土地理院地図での等高線で見ると4mほどありました。

井ノ口城 井ノ口集落の南にある大樹寺
 「どうする家康」にも登場し家康が「厭離穢土欣求浄土」の教えを受けたとされる三河の巨刹 大樹寺は井ノ口集落と同じ台地上に隣接してありますが、大樹寺が建立されたのは額田郡一揆の後で、額田郡一揆の頃はこの辺りは何もない土地で、畑地だったのではないかと想像しました。
 
「諸説あり!」の額田郡一揆の本拠地とされる井ノ口城でしたが、赤城中納言の城だった時も城郭というよりも先端の台地からの物見をするような場所だったのではないかと思いました。古くから矢作川の渡河地点としての大門があり、メインの交通路が付近を通っていたと考えられる井ノ口城を、想像を交えながら楽しく見学出来て良かったです。