高山屋敷は滋賀県水口町高山にあります。佐々木盛綱配下の高山源太左衛門が領したとされる地で、付近にはいくつもの高山氏由来の城郭遺構や屋敷地が残されています。今回の現在先は高山屋敷と名付けられた城郭遺構となっていますが、東側に隣接して屋敷地が在ったと考えられているようです。今回の参考資料は (1)「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010 (2)「甲賀郡史」甲賀郡教育会1926 (3)「水口町志」水口町志編纂委員会1959 などです。
高山屋敷 周囲には数多くの甲賀の城が点在する
資料(3)によると、高山氏は甲賀五十三家の一つに数えられ南の三大寺、北の岩坂まで領していた時期が有ったようですが東側は杣川を区切りとしたようです。附近には甲賀衆の城郭が多数残されています。
高山屋敷 Ⅰ郭東側に居館が在ったと思われるが現在は住宅等で不明
現状の高山屋敷は土塁と堀で囲まれた方形の一辺が≒40mの城郭遺構が残りますが、資料(1)では往時は東側の下に居館が在った可能性が示されていました。
高山屋敷 右に建物 左上に土塁② 南から
写真では樹木に隠れて土塁②が良く見えませんが、土塁②の東側法面を一部削って建物が建っていました。
高山屋敷 土塁②天端 左に堀b
高山屋敷のⅠ郭は、山城で言えば詰の城にあたると思いますが、地形を利用して居館に隣接した有事の際の備えとして築かれた城郭のようでした。
高山屋敷 土塁②天端 南から 右下に居館面
土塁②は厚があり東下の居館面からの高さがは5mはありそうでした。厚みのある土塁はみどころでした。
高山屋敷 土塁②と堀b 北から
四周を土塁で囲まれⅠ郭を取り巻くように堀が設けられていたと思われますが、東側は堀の外側にも土塁②が設けられていました。土塁②には写真のように開口部がありましたが、往時は東下の居館からの通路があったかもしれないと想像してみましたがどうでしょう。
高山屋敷 Ⅰ郭北辺の堀①東端部 奥下の平坦面に建物が見える 西上から
Ⅰ郭を取り巻く堀①の東端部は堀②とつながっていた可能性がありますが建物等の用地造成で削り取られたため、原形は不明でした。ヒョットすると東下の屋敷地からの通路はこの部分にあったかもしれません。
高山屋敷 Ⅰ郭北辺の堀① 東下から
堀①はⅠ郭の北辺から西辺にと続いていました。なおⅠ郭南辺部分は地形の関係で堀は無く、通路地形となり、通路の南側は斜面となっていました。
高山屋敷 Ⅰ郭内部 南から 奥に土塁③
Ⅰ郭は土塁に囲まれた一辺が≒40mの平場でした。土塁の一部に崩落とも見える開口部がありましたが土塁③は原形が保たれているようでした。
高山屋敷 Ⅰ郭南東隅の虎口a 郭内から
虎口aは笹に覆われていましたが確認することが出来ました。城外からの虎口への城道は崩落や掘削でハッキリしませんでした。
高山屋敷 Ⅰ郭西辺 土塁の開口部⑧ 西から
Ⅰ郭西辺の土塁⑤と⑦の間の開口部は崩落があるようですが、ヒョットすると搦手の虎口があったかもしれないと想像しました。高山地区の西側は山地が続くので侵入に対しての恐れが少なかったかもしれません。
高山屋敷 Ⅰ郭土塁➂ ⑦ ⑤を西側アから堀①越しに見る
Ⅰ郭の西辺土塁は③が最も高く⑦、⑤と順に低くなっていました。地山を削ってⅠ郭を造り出し、周囲の土塁を削り残した為、地山の地形が表れているのではないかと思いました。
高山屋敷 Ⅰ郭南辺 土塁⑤-⑥間の開口部⑨ 郭内から
Ⅰ郭南辺土塁には開口部がありました。崩落ではなさそうでしたので、南方向への狭間のような守りの備えかもしれないと想像してみましたがどうでしょう。
高山屋敷 一学殿屋敷 今は光照寺
図1の高山屋敷の南東に一学屋敷(現光照寺)があり、資料⑴では『甲賀郡史』に依拠すると、この範囲も城域だった可能性があるとされていました。
高山氏は甲賀五十三家の一員として高山地区に多数の城館を築き、今も多くが残存しています。今回はそのうちの一つを見学して楽しみましたが、順次周囲の城郭も見学してゆきたいと思います。