城と歴史歩きを楽しむ

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米倉城 遠江 混乱する伝承が残る城郭 主郭部の残りが良好

2024-09-23 | 歴史
米倉城は静岡県周智郡森町米倉にあります。森町米倉は現在森町一宮に住所表示が変更されたようですが、城の名は「こめぐら」と呼ばれ、米蔵と書かれた資料もありました。城主は二俣近江守昌長が在城したと伝承されてきましたが、確証はないようです。今回の参考資料は (1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978  (2)「静岡県の城跡 西部・遠江国版」 静岡古城研究会2022 (3)「遠江史蹟瑣談」岩田孝友著1952 などです。

米倉城 各所に割拠していた土豪が信玄の侵攻で武田に属したか
 遠江の城郭は、信玄の侵攻によって割拠していた土豪の城が改造された例が多くみられますが、資料(2)によると米倉城も進軍する武田軍の駐屯地となった可能性が考えられるとされます。※仲明城は→こちら 家田城は→こちら 片瀬城は→こちら

米倉城 二俣街道は城主の伝承からかも ③は住宅地
 米倉城の西側から東に抜ける道は二俣街道と呼ばれているようですが、一般に知られる「二俣街道」との関連が見出せないので、ヒョットすると城主の伝承にある二俣近江守昌長にちなんだ名称かもしれないと想像しましたがどうでしょう。※極楽寺の駐車場を利用させていただきました。

米倉城 二俣街道 城域西側の部分 北から
 資料(2)によると、二俣街道は城域の西側から堀切b(切通し)で北側の尾根を横断していたようです。

米倉城 堀切b 西から 
 資料(2)では堀切bで北側の尾根と画して城域を画しているとされますが、二俣街道の切通道としても利用されていたようです。現況は通る人もほとんどいないようですね。

米倉城 Ⅰ郭(主郭)と山本氏墓標 
 最高所にはⅠ郭(主郭)が設けられ、山本氏の墓標が在りました。資料(1)によれば、山本氏の祖は永禄年間に古城(米倉城)に屋敷を建て、現在に至るまで居住したおられるようで、墓標は明治のものでした。資料(3)に掲載の伝承によれば、山本氏は信玄の配下で、あの山本勘助の兄とも伝わるようです。

米倉城 曲輪① 南から 奥にⅠ郭
 平場②と③は宅地化、耕作地化などによっての改変がありそうでしたが、曲輪①は往時の姿を留めているように見えました。

米倉城 北曲輪 三段の平場がある
 Ⅰ郭の北側には堀aを隔てて三段の平場がみられました。地山を少し加工した段のようでした。 

米倉城 堀切a 西から 右上にⅠ郭
 主郭と北曲輪の間は規模の大きな堀切aで遮断されていました。堀切bは小規模でしたが堀aは本格的で見応えアリでした。

米倉城 平場②‐1 と小祠と小屋 南東から 奥上に曲輪①
 平場②-1と②-2は後世の利用形態に違いがあったのか、少し違って見えましたが広い平場でした。往時はこの面にも屋敷が建っていたかもしれないと思いました。には小祠と小屋跡がありました。

米倉城 f裏の石垣 南から 
 小祠と小屋跡の裏側には河原石の石垣が積まれていました。近年に積まれたように見えました。小祠と小屋を建てる時に積まれたのではないでしょうか。

米倉城 土塁e(右側)と堀切d 西から
 曲輪①の南西隅下から延びる土塁eがあり堀切dで断ち切られていました。往時は二俣街道からの守りの役割の土塁だったのではないかとおもいました。
米倉城 堀切ウ 東から
 土塁eを断ち切っている堀切dの位置からヒョットすると後世の土地利用で切通された通路かもしれません。

米倉城 地点ア 西から 左下に住宅地
 平場②の南辺部は切岸状になり、現住の住宅が建つ③と段差がありました。城郭の稼働時にも屋敷地だった可能性がありそうでした。③は住宅ですので見学はここまでとしました。

参考 米倉城 VIRTUAL SHIZUOKA 静岡県 中・西部 点群データ より
 米倉城は古くから住居などに利用されてきたので、城郭遺構は改変された部分がありますが、主郭を中心にかなりの遺構が残されていて楽しく見学できてよかったです。