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美濃・鷹撃谷城 土塁状地形が見学者を惑わす阿木川の段丘崖上の城郭

2020-01-23 | 歴史

鷹撃谷城は岐阜県恵那市大井町にあります。鷹撃谷は、たかちがや と読むそうです。
 (尾張から来た)藤井常俊が大井の地に住み着き大井城を築き、その子宗恒・常守兄弟が岩村の遠山氏に仕え、常守が大井城を守ったが、のちに鷹撃谷城を築いて兄弟で守ったとされます。両城とも阿木川の流れに削られた河岸段丘の崖の上に築かれています。
大井城については2019/12/22の記事をご覧ください。
 両城の歴史は不明の部分が多いようで、大井城と記された城址碑は鷹撃谷城の土塁上に立っています。

今回は、鷹撃谷城跡発掘調査報告書2004、岐阜県中世城館跡総合調査報告書2004などを資料として出かけました。


鷹撃谷城 阿木川に削られた河岸段丘上に大井城と並んで築かれている
 現在は鉄道、高速道路などが整備されましたが、河岸段丘の地形はよく残されているようで、段丘崖上に築かれ、崖を要害とした、いわゆる後堅固の城だったと思われます。


鷹撃谷城 土塁状地形上に恵那市教育委員会が建てた「大井城跡」の城址碑
 伝承の大井城は、ここか、小学校の所か、別の場場所かは確証がないようです。したがって「かもしれない城址碑」ということになりそうです。城址碑の立っている土塁状地形は、いかにも土塁ですが、城郭遺構としての土塁ではなく、後世の耕作地化の時に段丘上の土砂に交じっていた礫を耕作地の片隅へ積み上げたものだと、発掘調査で判明したそうです。
 河岸段丘はかつての川底ですから大量の礫が混ざっていたと考えられますね。


鷹撃谷城 見どころは堀跡です。
 鷹撃谷城の発掘調査で確認されたのは近世以降の耕作地などの遺物・遺構が中心で、城郭遺構と明確に分かるものは、ほぼなかったようです。
その中で、堀跡は今見ることができる城郭遺構とされます。


鷹撃谷城 土塁状地形の脇を旧道が通っている。旧道は明治の地籍図でも確認できる
 写真の駐車場になっている平坦地は耕作地の跡ですが、元は城内だった場所です。旧道がいつからあるかは分かりませんが、廃城後のことだろうと想像しました。道が地境になっているので道の脇に地山から出た礫を積み上げたのではないでしょうか。
※写真では「土塁」としてありますが城郭遺構ではありません。


鷹撃谷城 堀跡と旧道
 鷹撃谷城で明確に残る城郭遺構は、この堀です。旧道が土橋のように見えますが、後世の道に付随するものだと思われます。
堀を渡った向こう側(北側)の地名は「出塀」(でべい)といい、出丸と同じような意味ということですので、往時は北側も城域だった可能性ががありそうです。


鷹撃谷城 旧道は崖の縁を通って北側で崖を下る。手前に堀、右奥に出塀
 段丘崖上から見ると崖下の建物の二階の屋根が下に見えました。旧道はしばらく崖の縁を進んで、徐々に下って崖下の道と合流していました。


鷹撃谷城 概略図の①地点のコの字型石垣 
 ①地点にはコの字型の石垣がありました。石垣は後世の耕作地化の時に積まれたようで、残念ながら城郭遺構とは無関係の様でした。

鷹撃谷城は城郭の土塁と見間違うような土塁状の地形があり、ある種の見どころとなっていましたが、実際には堀が城郭遺構としての見どころでした。現地には複数回訪れていますが、最近では畑だったところが耕作放棄地となっていて背の高い雑草に覆われていました。

 


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