霧ヶ城は岐阜県中津川市神坂にあります。木曽川に流れ下る冷川と温川に削られた両川の合流点の鋭角の台地先端部に築かれ、その急勾配の法面に守られています。
広い屋敷地と思われる遺構を持ち、先端の城郭部は曲輪の面積が狭いが、四重に施された堀切明確に残り、見事です。
城主・城歴ははっきりしないようですが東美濃の岩村場関連の、美濃・信州の境目を守る城ともいわれます。
今回も宮坂武男氏の縄張図集『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃、飛騨、三河、遠江編』を片手に出かけました。
図のクリックで拡大
国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
図のⅠ、Ⅱが城郭の曲輪と思われⅢ、Ⅳは屋敷地のように見えます。Aの部分も北側に石積が有り屋敷地だったかもしれません。付近はソーラーパネルの設置が多数なされていますので、そのため屋敷地遺構の改変が有るようです。
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの遺構はほぼ原形が保たれていて、見事な遺構を見ることができました。

霧ヶ城 屋敷地Ⅳ 北側の井戸跡 Ⅳ郭の低い石額もある
井戸と思われる浅い窪みがありましたが、井戸は危険防止のため後世に埋められた場合も多いので、表面観察だけでは井戸と断定は困難でした。

霧ヶ城 旧道沿いの石積遺構 途中に切れ目がある
ⅢとAの間を旧道が通っています。Ⅲ側には道に沿って石積遺構が残されていました。往時は石積の上に土塀などの塀が設けられていたかもしれないと想像しました。石積の途中には切れ目があり、旧道からの入り口になっていたのかもしれません。

霧ヶ城 旧道には巨木と馬頭観音が祀られている。
冷川方面から折れ曲がりながら登ってきた旧街道が城域に入る場所に巨木が立ち、その下には馬頭観音がまつられていました。いかにも古い街道「お約束」の雰囲気がありました。
旧街道がどこから登ってきているかは、今回は未確認でしたが、神坂峠へ向かう東山道がこの辺りを通っていたので、あるいはそれかもしれないと考えてみました。
今、車でここまで来る道は、昭和32年の空中写真では確認できないので新しい道のようです。
Ⅲの曲輪(屋敷地)は広く、平坦面に段差があります。用途または地位などの違う目的で複数の建物が有ったのではないでしょうか。
図には描きませんでしたがこの曲輪から北側に降りて旧道につながる道もありました。

霧ヶ城 堀切ア’と土橋をⅡから見る
Ⅲの曲輪を通り越すと堀切ア、ア’が土橋を挟んで食違う遺構が見えてきます。そのカッコよさに思わず ワォ!と叫んでしまいました。
堀切は急な斜面に沿ってかなり下まで竪堀状に落ちています。ほぼ往時のままの形状を保っているように見えました。
朝一番で霧ヶ城を訪れましたが、今日はこれを見ただけで満足だなァーと思うほどでした。

霧ヶ城 堀切ア 西側から 右手にアにつながる細い堀切も見える
食違いの堀切ア、イ、土橋などが集中して明確に残る遺構は写真ではうまく写せませんでしたが、必見の山城遺構だと思います。

霧ヶ城 堀切ウ 上から
城郭部の主郭と思われるⅠの曲輪を抜けると堀切アに匹敵するような堀切ウが現れます。狭い尾根状台地の先端で、両側とも急勾配なので、この方面からの攻撃は全く不可能だと思わせます。
霧ヶ城の立地はⅢ、Ⅳの屋敷地側の防御が台地続きでとても弱いと思われます。また城郭としてⅠの曲輪の面積が狭いので、籠城して戦うことは難しそうです。
城郭部分はどのような目的・機能として築かれたのか、屋敷地とは稼働時期が違っていたのかなど、謎が残りましたが城郭とそれに付随する屋敷地の遺構は、来てよかったと思わせるものでした。
広い屋敷地と思われる遺構を持ち、先端の城郭部は曲輪の面積が狭いが、四重に施された堀切明確に残り、見事です。
城主・城歴ははっきりしないようですが東美濃の岩村場関連の、美濃・信州の境目を守る城ともいわれます。
今回も宮坂武男氏の縄張図集『信濃をめぐる境目の山城と館 美濃、飛騨、三河、遠江編』を片手に出かけました。

国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
図のⅠ、Ⅱが城郭の曲輪と思われⅢ、Ⅳは屋敷地のように見えます。Aの部分も北側に石積が有り屋敷地だったかもしれません。付近はソーラーパネルの設置が多数なされていますので、そのため屋敷地遺構の改変が有るようです。
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの遺構はほぼ原形が保たれていて、見事な遺構を見ることができました。

霧ヶ城 屋敷地Ⅳ 北側の井戸跡 Ⅳ郭の低い石額もある
井戸と思われる浅い窪みがありましたが、井戸は危険防止のため後世に埋められた場合も多いので、表面観察だけでは井戸と断定は困難でした。

霧ヶ城 旧道沿いの石積遺構 途中に切れ目がある
ⅢとAの間を旧道が通っています。Ⅲ側には道に沿って石積遺構が残されていました。往時は石積の上に土塀などの塀が設けられていたかもしれないと想像しました。石積の途中には切れ目があり、旧道からの入り口になっていたのかもしれません。

霧ヶ城 旧道には巨木と馬頭観音が祀られている。
冷川方面から折れ曲がりながら登ってきた旧街道が城域に入る場所に巨木が立ち、その下には馬頭観音がまつられていました。いかにも古い街道「お約束」の雰囲気がありました。
旧街道がどこから登ってきているかは、今回は未確認でしたが、神坂峠へ向かう東山道がこの辺りを通っていたので、あるいはそれかもしれないと考えてみました。
今、車でここまで来る道は、昭和32年の空中写真では確認できないので新しい道のようです。
Ⅲの曲輪(屋敷地)は広く、平坦面に段差があります。用途または地位などの違う目的で複数の建物が有ったのではないでしょうか。
図には描きませんでしたがこの曲輪から北側に降りて旧道につながる道もありました。

霧ヶ城 堀切ア’と土橋をⅡから見る
Ⅲの曲輪を通り越すと堀切ア、ア’が土橋を挟んで食違う遺構が見えてきます。そのカッコよさに思わず ワォ!と叫んでしまいました。
堀切は急な斜面に沿ってかなり下まで竪堀状に落ちています。ほぼ往時のままの形状を保っているように見えました。
朝一番で霧ヶ城を訪れましたが、今日はこれを見ただけで満足だなァーと思うほどでした。

霧ヶ城 堀切ア 西側から 右手にアにつながる細い堀切も見える
食違いの堀切ア、イ、土橋などが集中して明確に残る遺構は写真ではうまく写せませんでしたが、必見の山城遺構だと思います。

霧ヶ城 堀切ウ 上から
城郭部の主郭と思われるⅠの曲輪を抜けると堀切アに匹敵するような堀切ウが現れます。狭い尾根状台地の先端で、両側とも急勾配なので、この方面からの攻撃は全く不可能だと思わせます。
霧ヶ城の立地はⅢ、Ⅳの屋敷地側の防御が台地続きでとても弱いと思われます。また城郭としてⅠの曲輪の面積が狭いので、籠城して戦うことは難しそうです。
城郭部分はどのような目的・機能として築かれたのか、屋敷地とは稼働時期が違っていたのかなど、謎が残りましたが城郭とそれに付随する屋敷地の遺構は、来てよかったと思わせるものでした。