井川城は長野県松本市井川城1丁目にあります。
企画展「井川から林へ~信濃守護小笠原氏と城の移り変わり~」が2019/10/19~11/17の期間で行われていたので、井川城の情報を得ようと訪れました。ちょうど松本市教育委員会文化財課の史跡整備担当者の方が居られて、展示説明をお聞きすることができ質問にも丁寧に答えていただけました。
井川城 駐車場は城址西側 駐車場表示と案内板がある 市の管理地で駐車も安心
松本市教育委員会文化財課の史跡整備担当者の方にお聞きした駐車場情報に従って駐車場に向かいました。
井川城に隣接していました。
井川城 駐車場 案内板があり、頭無川を渡ればそこが井川城。駐車はここがおすすめですね。
発掘調査の結果も含めた内容の案内板がありました。事前の準備段階では付近の駐車場がわからなくて心配だったのですが、助かりました。
井川城 まず目につくのが「伝櫓台」 平らな城域にポツンと盛り上がって目立っている
伝櫓台は、一見広くて平らな城域の真ん中にポツンと土壇状に盛り上がっているように見えました。土壇の上には小さな祠が祀られていましたが、他に目立ったものはありませんでした。古くから櫓台と伝えられてきたようですが、周囲の状況からするとあまりピンとこない印象でした。
井川城 発掘調査結果と現況を重ね合わせて見る
伝櫓台の疑問が残ったので「小笠原氏城館群 井川城試掘・第1次・第2次発掘調査報告書」 松本市教育委員会2016.3 を見てみました。この報告書は図版も含めると井川城について100ページにも及ぶものだったので、今までしっかり見たことがありませんでした。これによると上図のように伝櫓台は城館の南東隅にあったことがわかりました。駐車場の案内板の図も良く見ればそうなっていましたが、伝櫓台の盛り上がりばかりに目が行っていたようでした。
線で囲んだ「土壇状盛土」が城館の部分で、微高地を土塁で囲みその内部に盛土をして館を建てたとされます。周辺は川や沼地で、往時は水に浮かんで見えたたかもしれません。西側が手薄に見えますが、西には大河・奈良井川が流れ天然の要害になっていたと思われます。
井川城 南側を流れる頭無川と伝櫓台 東から見る
調査報告書によると、往時は櫓台のある土壇状盛土の郭内と頭無川の間に土塁が巡っていたということですが、今は耕作地となり頭無川まで平坦地になっていました。土塁は耕作地化でほぼ消滅したようです。
井川城 虎口が想定される道 東側から
報告書によると、この辺りは流路が2本左右方向に流れその先(郭寄りに)堀が左右方向にあったとされます。往時は頭無川がここを流れていた可能性があるとされます。ここから見ると土壇状の郭はずっと奥ですね。図の「虎口」と表示した部分の線が折れ曲がっている場所に虎口が考えられるとされます。写真でははっきり見えていません。
手前の平坦地には水が見えますが、この辺りは今でも水はけが悪く、暗渠で排水しているそうです。平坦面がすべて郭の跡だとばかり思って見学したので、ずいぶん広い館の敷地だったと思っていましたが、違っていましたね。
井川城 頭無川は今も流路が蛇行して残されている。往時は堀としてわざわざ蛇行させた可能性あり
東側の堀や流路は埋められ今は湿地として一部残されていますが、南側と西側は頭無川となっています。大きく蛇行していますが、往時は堀の役目として意図的に蛇行させた可能性があると報告書では述べられていました。確かに不自然な曲がりくねり様ですね。
井川城 今は耕作地となったが礎石建物、掘立柱建物が立つ館が有ったとされる
発掘調査はこれまで部分的にしか行われていないので、中央部の様子はよくわかっていないようですが、断片的な成果から礎石建物や掘立柱建物が建っていた可能性が見えてきたようです。信濃守護としての小笠原氏の居館にふさわしい館が立っていたのではないかと想像しました。
小笠原氏は、この後松本市東部の山沿いに館や山城(林城、林小城)を築き移ったとされます。時代が戦国期に入り平地の城館から山城への潮流がここへも押し寄せたのですね。
企画展を見てから井川城と林小城の見学に行きましたが、現地情報を得て見学するとより充実した見学が出来ることを改めて実感しました。