田辺城は三重県いなべ市北勢町田辺北山にあります。築城は織田信雄の命により木造長政が天正14年(1586)に築城したとされます。今回の発掘調査現地説明会は東海環状自動車道の敷設工事に伴うもので、これまでに第1次から第4次の発掘調査が行われ、今回は第5次となり10月23日(土)に現地説明会が行われました。最終回の現地説明会とのことで、今後は道路工事で消滅してしまいますので「見納め」でした。
発掘現場は田辺城の城郭遺構よりも北にあり、家臣の屋敷地があったのではないかとされる地域で、これまでの発掘調査で北を守る規模の大きな土塁、堀などとともに屋敷跡と思われる柱穴などが検出されていました。
今回の資料は(1)発掘調査現地説明会資料です。地表面からの観察による縄張図は(2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008を参照しました。
田辺城 城郭中心部よりも北側に家臣の屋敷地が広がっていたと考えられている
田辺城は二之瀬川と田切川に東西を削り取られた台地上に築かれています。発掘現場は田辺城の城郭の北に所在して発掘現場以外にも屋敷地が広がっていたと考えられています。
現地は後世には農耕地として利用されたこともあり、その時に遺構の一部は改変を受けたようです。台地はかつては河川の川底だったのでしょうか、中小の礫が大量に見られ農耕地として開墾するのも大変な難事業だったのではないかと想像しました。
今回の発掘調査現場では資料(2)でこれまでに描かれた縄張図の地形が表土をはぎ取った姿で確認できました。
田辺城 今回の調査区AとB
第1~4次の発掘調査区の東側に残された場所が発掘調査されました。資料(2)で描かれた縄張図の表面地形の表土をはぎ取った姿が現れました。その他にも興味深い遺構が見学出来ました。北から順に見てゆきましょう。
田辺城 調査区北端部の土坑は堀か?
これまでの発掘調査で確認されている北辺の規模の大きな堀がありますが、今回の土坑は確認された堀の延長線上にあることから、堀の一部の可能性が考えられるとのことでした。
田辺城 土塁と溝① 土塁の内側に浅い溝が設けられている
屋敷地を取り巻くように土塁が設けられていて土塁の内側に土塁に沿って浅い溝が設けられていました。土塁の外側に堀がある地形はよく見かけますが、内側にあるこの溝の役割が興味深いものでした。担当者の方の説明では「土塁の高さと溝の深さから、外敵に対して攻撃する時の『身隠し』だったことが考えられるということでした。
田辺城 土橋 断面を見るため一部を断ち切っている
屋敷地を囲む土塁は長大ですので、調査用に所どころが切り取られて開口していました。写真の土橋は土塁内側の溝を渡り開口部から東に出る土橋です。断面を見るといったん掘った溝を埋めて土橋を設けたように見えています。
田辺城 井戸 水は見えない 壁面に礫が積まれているように見えるが・・・
土橋を渡った土塁の外側に井戸がありました。現在は水が見えませんが利用していたときには井戸底はもっと深かったのかもしれません。礫を積んだように見える壁面は地山の礫が多い地層を見ている可能性もありそうです。
田辺城 炭焼窯 1 2
炭焼窯の跡が2か所検出されました。1は実際に使用された炭焼窯ですが2は造窯工事が途中で中止されたものと考えられるとの説明でした。炭焼窯は昭和の遺構だそうです。炭焼窯は他所でもよく見かけますが、戦後の燃料が石油系になったので木炭がほとんど使われなくなって炭焼も終わったようですね。
田辺城 虎口A 北から 見どころです!
虎口Aは資料(2)で描かれていますが、表土をはぎ取った姿を見ることができました。残念ながら遺構が調査区の境界線上にあるので一部は表土の下でした。いわゆる外枡形の虎口がハッキリ確認できました。
虎口から東に延びる道が表土に覆われて溝状に残っていてこの辺りも屋敷地だった可能性がありそうでした。
田辺城 虎口B 北から 南側の落ち込みが特徴の見どころです
虎口Aの南側に虎口Bがありました。A・Bそれぞれに屋敷があったのかもしれませんね。虎口Bも外枡形の形状ですが、枡形の南側に土塁は無く、調査資料では「落ち込み」と名付けられた窪みになっているのが特徴的でした。
田辺城 調査区南端の大きな土塁と堀
この堀と土塁は規模が大きいので表土に覆われていた従来も目立っていました。資料(2)にも描かれていて、ここより南側にあった屋敷地の北端を画する土塁だったように見えました。
コロナ感染対策のため受付では検温が行われ、集合しての説明は取り止めでしたが現場の発掘担当者の方が質問に丁寧に答えてくださったので資料だけだはわからなかったいくつもの疑問が解消しました。
ここに限らず、ほとんどの発掘調査は開発や道路などで消滅してしまう遺構のために行われますので、調査結果で往時の姿が確認できると一概に喜べない面がありますね。