長篠設楽原の戦いの直前、奥平信昌を城主とする長篠城に籠城した徳川方を取り囲んだ武田勝頼軍の包囲網を脱出して岡崎城の徳川家康、織田信長に救援を求めた勇者・鳥居強右衛門が辿ったルートは、そのエピソードと同様に諸説が入り乱れています。当ブログでは、長篠城址史跡保存館に展示されている強右衛門の道 に基づいて、その1 では明見地区周辺の宮崎街道(旧道)を辿りましたが今回の その2 では、出発点の長篠城から、脱出成功ののろしを揚げたとされる雁峰山までのルートを辿ってみたいと思います。
今回の参考資料は(1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005、(2)「鳥居強右衛門 」金子 拓2018、(3)2万分の1 国土地図 明治23年測図 などです。 ※その1は→こちら その3は→こちら その4は→こちら
強右衛門の道 Bは その1 の道 Aが今回の道
強衛門の道や同行者の有無など強衛門にまつわる伝承には諸説が多数ありますが (1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005でもこのルートが採用されていて、地元の有力な説として定着しているようです。
※雁峰山は 地元では「かんぼうやま」と呼ばれています
長篠城から雁峰山へのルート
図1のAは豊川を泳いで下ったとされるルートで、長篠城から脱出して豊川を泳いで下り長走りを経由して連吾川河口近くの広瀬・川路で上陸し雁峰山に向かったとされます。脱出当日は大雨で増水していたとされますが、今見る平常時の豊川は上流の頭首工などで取水され「泳いで」下る場所は少ない状態でした。
広瀬から雁峰山までのルートは諸説あります。明治の地図ではCのルートが北へ登る主要な道となっており、Bの道は間道の様に描かれていました。伝承では「元八石」付近で脱出成功の狼煙を揚げたとされていますので往時はBの道がメインで集落を結ぶ道としてよく利用されていたのかもしれませんね。
左、寒狭川(豊川) 右、宇連川(大野川)の合流点 南から 両河川に挟まれた長篠城が見える
周囲を武田軍が厳重に包囲する中、夜陰に紛れて豊川に脱出したとされますが (1)「奥平氏と額田」中の「戦国史談」によると、宇治の茶師が籠城中の食料が不足した城内に餅を持ち込んだ記されていますので、武田軍の包囲には案外穴があったのかもしれません。
ルートA 豊川の長走り付近 牛淵橋から南向きに見る 頭上に新東名高速道の長篠城大橋
ルートAの豊川は一部に水深の深い淵がありますが、泳げないような浅瀬も多くありました。強衛門の脱出当日は大水で水量が増していたと伝わりますので広瀬まで泳いで下ることが出来たということでしょう。増水して危険な豊川を無事に泳いで下ることが出来た強衛門は水練の達者だったのでしょうね。
強衛門上陸地の標柱が連吾川河口に立つ
連吾川が豊川に流れ込む合流点の豊川右岸に上陸地の標柱が立っていました。付近に舟附の地名が残りますのでこの付近は上陸しやすかったのではないでしょうか。舟附の上流下流とも川岸は崖状になっていますので古くからここに豊川の舟運の船着き場があったと思われます。
連吾川 南から 奥に雁峰山 ルートBはこの辺りを通る
幾日か後に、この地で武田軍と織田・徳川連合軍の決戦が行われるとは夢にも思わず強衛門は雁峰山を目指して急いで通過したことでしょう。連吾川は河川改修が行われ、付近の田も圃場整備で道も地形もかなり変わってしまったようです。
雁峰山の登り口 須長の入り口から細い山道になる
ルートBを連吾川沿いに北に向かってきた道は須長の集落から細い山道に入りました。入口付近には雁峰山入口の案内板や標柱が立っていました。
雁峰山への道 林道や山仕事の道と所々で交差しながら登る
林道や山仕事の道、間道などと何度も交差しながら雁峰山を目指して登りました、途中案内板や標柱が立っていましたが文字が薄れて読みにくくなっているものもありました。
元八石 元八がここでのろしを揚げたとされるが・・・
元八なるものがここでのろしを揚げ、自分の名前を石に刻んで立ち去ったという伝承が有るようです。元八石の看板が立っていて付近にいくつかの大石がありました。石に刻まれた元八の文字が在るとされますので捜してみると「多分これだろう」という石がありました・・多分です。
強衛門の伝承と峠道の目印の大石が重なりあって元八石の伝承が生まれたのではないかと想像しましたがどうでしょう。
涼み松 長篠城址史跡保存館の図では「のろし松」とされているのが多分これ ※松は枯れている
元八石から涼み松付近を のろし場 と呼んでいるようで、強衛門がのろしを揚げたとされる場所が特定されているわけではなさそうでした。涼み松は時を経て枯れていましたが強衛門がのろしを揚げた時代に生えていたとは思えない大きさでした。峠道を通る人がここで一服して涼を取ったという後世の伝承のほうがありそうな話だと思いました。
額岩 道は額岩の南下を通る 道はハイカーの踏跡で明確
涼み松から雁峰山への道はハイカーが利用する道になっているようで、踏跡が明瞭でした。額岩と呼ばれる大岩が道の上方に有りましたが名前の由来は未確認です。
雁峰山 頂上 突然の大雨でレンズに雨粒が・・・
雁峰山の頂上に到着した頃に雨が降り出してビショ濡れになりました。カメラのレンズにもたっぷりの雨粒でした。頂上周辺に特段の地形はなくなだらかな山頂の地形でした。
強衛門は脱出成功ののろしを雁峰山で揚げたとされますが、元八石・涼み松付近がのろし場とされますので
雁峰山の山頂を特定してのろしを揚げたとは認識されていなかったのでしょうね。
先を急ぐ強衛門はのろしを揚げた後は山頂を急ぎ足で通り過ぎて杉平、野郷へと向かったことでしょう。
この先の続きは改めて・・・
長篠設楽原の戦い直前の強衛門の岡崎への脱出行の道を訪ねて長篠城から雁峰山までの想定される道を歩きましたが、途中の連吾川沿いでの決戦場は静まり返り、観光用ののぼり旗がはためいているだけでした。