龍ヶ崎城は伊那谷の北端部、長野県辰野町宮所にあります。古くから伊那谷から塩尻への三州街道、塩尻から松本への五千石街道の伊那口を押さえる要衝に築かれ城の歴史は1400年代に遡るようです。戦国時代に武田軍が南下し福与城(南≒10km)の藤沢氏を攻めた時には福与城救援のため松本の小笠原氏がここに陣を敷き荒神山(南3km)に陣した武田軍を挟撃ちにしたとされます。その後武田軍に責められ小笠原氏は松本に逃げ帰り福与城は武田の手に落ちたとされます。 ※福与城は→こちら
今回の参考資料は「信濃の山城と館 6」宮坂武男著2013 です。
龍ヶ崎城 伊那谷北部と三州街道が眼下に広がる 左手山頂に大城
訪れた時に突然の豪雨と雷鳴に肝を冷やしましたが、しばらくすると日が差して眺望がひらけました。
龍ヶ崎城 山下の東下に伊那谷から塩尻へ抜ける三州街道(国道153号)が走る 天竜川を遡ると諏訪へ
資料によれば大城は龍ヶ崎城の詰の城といわれ、両城で重要な街道が通る伊那口を抑える役割が有ったのではないでしょうか。
龍ヶ崎城 竪堀ア~堀切サ が城域 龍ヶ崎公園からアへの道が大手道
山下に居館があったかも知れませんが資料では触れられていませんでした。有ったとすれば池上寺辺りかもしれませんね。龍ヶ崎公園はこの地が諏訪大社上社の支配下に有った12世紀から御社宮司社が祀られた跡地と現地案内板にありました。図2の2付近には此花昨夜姫の碑があり大手道は参道としても利用されていたようです。
龍ヶ崎城 堀切エ と2の間の土壇上に立つ此花昨夜姫の碑
大手道は龍ヶ崎公園から観音堂、七曲り、小平場4を通って登ります。途中に此花昨夜姫を祀った碑が建っていましたので、ここまでの大手道は参道として利用されていたのがわかりました。
龍ヶ崎城 堀切エ 奥上に主郭1 南から
ここからの主郭1の眺めはカッコよくって見どころでした。自然地形に手を加えた堀切地形でした。
龍ヶ崎城 主郭1 北から 曲輪の四周に土塁 南辺に南虎口 城址碑が立つ
堀切エを越して最高所に出ると主郭1がありました。四周を土塁で囲まれた削平された平場となっていました。曲輪の内部には目立った遺構は見当りませんでした。
龍ヶ崎城 主郭1 南から 北西隅に開口部が在る 虎口?
主郭1の北辺の土塁は最も高くなっていました。北西隅に開口部がありましたが往時の虎口だったかどうか疑問がありました。主郭1は北尾根と西側からの敵の侵入への備えが厳重ですので、ここに虎口はなっかったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
龍ヶ崎城 大堀切オ 西から 右上に主郭1
主郭1の北尾根に対する備えは厳重で大きな堀切と何条もの堀切、畝状の竪堀などが設けられ、南側への回り込みにも備えていました。
龍ヶ崎城 畝状竪堀シ 北から 左手上に主郭1 写真では複数の竪堀が見えませんね
主郭1の西側下には写真でははっきり見えませんが畝状竪堀シが設けられていました。北側の尾根からの回り込みを防ぐ役割だと思います。
龍ヶ崎城 北尾根の竪堀コ 南から
尾根筋には堀切と竪堀が数条有りましたが竪堀コは幅広でした。資料ではコの下端部に井戸マークが描かれていましたがはっきり確認が出来ませんでした。堀幅が広いのと井戸との関係がありそうですね。
龍ヶ崎城 北端部の平場5 手前に浅い堀切が在る
北尾根の北端部には平場5と北限の浅い堀切サがありました。途中の北尾根の幅は狭く平場らしいところはありませんでしたが平場5だけが離れた位置にありました。自然地形の利用をしているために離れた位置になっているのかも知れません。
龍ヶ崎城は松本方面への旅行の途中で見学しましたが山上からの展望が素晴らしく、城址見学だけでなく眺望も楽しめてよかったです。