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三河・登屋ケ根城 その2 意外に広く興味深い城域を絵図で確認しながら見学する 

2022-01-23 | 歴史

登屋ケ根城は愛知県豊川市長沢町にあります。その1ではⅠ郭、Ⅱ郭を中心に「諸国古城之図」の絵図と対比しながら見学しましたが、その2 では、屋敷地とされる範囲も絵図を見ながら見学したいと思います。
 今回も資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997  (2)音羽町史 通史編 音羽町史編さん委員会 2005 (3)三河国宝飯郡誌    (4)浅野文庫「諸国古城之図」(三河宝飯 トカ子)広島市立中央図書館所蔵などです。なお城の位置、城郭周辺などは その1でご覧ください。    ※登屋ケ根城その1は→こちら


浅野文庫「諸国古城之図」(三河宝飯 トカ子)広島市立中央図書館所蔵 
 ※広島市立中央図書館の許可を得て掲載しています。 
絵図のⅣ郭部分には 「此城昔ヨリ有之ト云トカ子ノ城関口ノ城トモ云  粕屋善兵衛 小原藤市城ヲ守由」などの書き込みがあります。


登屋ケ根城 Ⅰ郭、Ⅱ郭が城郭遺構に見えるがⅢ郭、Ⅳ郭も登屋ケ根城
 一見すると登屋ケ根城はⅠ郭とⅡ郭が堀で囲まれたコンパクトな城郭のように見えますが、絵図を確認するとⅢ郭とⅣ郭も堀で囲まれていたことがわかりました。東西300m✕南北170mの思ったよりも大きな城域があり、絵図を見るとⅢ郭部分は東側に虎口を二つ設けた馬出曲輪のように見えます。


登屋ケ根城 Ⅲ郭南東隅と思われる残欠土塁⑩ 西から
 Ⅲ郭はほとんどが畑地になって残欠土塁が短く残るだけでした。絵図と対比するとⅢ郭の南東隅に該当するのではないかと思います。絵図と対比して考えると、往時のⅢ郭は馬出状の土塁囲みの曲輪であったと想像できそうですがどうでしょう。


登屋ケ根城 Ⅳ郭 今は畑地 西から  東に向けて緩やかに傾斜が下がる
 Ⅳ郭の平面は一部に石垣が見られますが、曲輪面は畑地となり遺構は見当たりませんでした。絵図の段階でも目立った遺構はなかったようで、遺構らしきものは描かれていませんでした。


登屋ケ根城 Ⅳ郭南側の切岸 西から  右下の田地は往時の堀だった可能性がある
 Ⅳ郭は屋敷地とされますが、Ⅰ郭Ⅱ郭に匹敵する高い切岸があり、絵図を見るとⅣ郭の周囲にも堀が取り巻いていたようで、守りの体制を有した曲輪だったと思われます。


登屋ケ根城 Ⅳ郭南側の切岸   東から 上部には石垣が見える
 Ⅳ郭の切岸の上部には石垣が積まれていました。往時から曲輪の土留として在った石垣か、後世になって畑地として利用したときに積まれた石垣かは確認できませんでした。


登屋ケ根城 Ⅳ郭を東から  道路は後世の敷設
 城域が周囲よりも高いのがよく分かる写真だと思います。手前の田地は絵図でも田畠と表示されています。
絵図ではⅣ郭には土塁が描かれていないようですが、絵図の当時にはすでに畑地として利用していたと思われますので、土塁は見当たらなかったかもしれないと想像しましたが確認はできませんでした。


登屋ケ根城 Ⅳ郭の石垣⑪   南東から
 Ⅳ郭は東に向かって緩やかな傾斜がありますので、水平面を出すために石垣が積まれていました。絵図には描かれていませんので、後世の畑地としての利用時に地境も兼ねて積まれた石垣の可能性がありそうです。


登屋ケ根城 両側に石垣の積まれたⅢ郭の道⑬ 東から  左側に残欠土塁⑩がある
 道は堀⑤に突き当たって右に折れ、更に左に折れてⅡ郭の虎口に向かいます。してみると絵図の馬出状のⅢ郭の南側の虎口に該当する部分かもしれないと想像してみましたがどうでしょう。


登屋ケ根城 Ⅱ郭  石垣の台地⑧  北西から
 Ⅱ郭の東辺には石垣が積まれた台地⑧がありました。これ以外にも東辺周辺には残欠石積が見られました。耕作地としての利用であれば、わざわざ高く石垣を積む必要はないと思われるので、往時も在ったのか後世のある時期に屋敷地として一段高い場所を石垣で造成して利用したのだろうかと考えてみましたが、よくわからないというのが結論です。


登屋ケ根城 Ⅰ郭北西辺の切岸 車の道で削られているようだ
 絵図によればⅠ郭の北西辺にも水堀が在ったように描かれています(此ホリ今ハ田   )。現況は上谷下川が流れ、切岸が削られて車の道が敷設されているように見えました。絵図には音羽川と切山川は描かれていますが上谷下川は描かれておらず、堀の外側は湿地帯となっていますので、上谷下川は堀跡を利用した後世の改良工事によって開削されたのではないかと思われます。


「フロノ下」の猪垣  江戸時代中期以降に築造と推定     一見の価値有り!
 城郭遺構ではありませんが、登屋ケ根城の南に「フロノ下」の猪垣と言われる石積の構築物がありました。一般的には山から猪や鹿が出てきて田畑を荒らすのを防ぐ目的で、猪垣は山際に造られていますが、この猪垣は図3で見るように、耕作地の周囲を囲むように築造されていて、珍しいものです。


慶忠院跡 今は墓苑となった
 慶忠院跡の場所は、以前は長寛(ちょうげん)寺がありました。資料(3)三河国宝飯郡誌 によると小原藤五郎の菩提寺であったとされ、(2)音羽町史 通史編では関口氏の菩提寺であったとされ、永禄四年に松平元康に攻められたときに兵火に燒かれたと伝わります。昭和25年に慶忠院が他所から移転して来ましたが、近年廃寺となり今は墓苑となっていました。

今回は広島市立中央図書館から提供していただいた浅野文庫「諸国古城之図」(三河宝飯 トカ子)と現地を対比、確認しながら往時の姿を想像する見学でした。これまで訪れたときとは随分違う往時の姿に想いを馳せながら、登屋ケ根城を堪能できとても良かったです。