龍岡城は長野県佐久市田口にあります。藩主大給(おぎゅう)松平家は徳川家の祖である松平家の四代親忠の子乗本が初代大給松平氏で、陣屋は当初三河大給の地にありましたが後に三河奥殿に移りました。幕末になって十一代松平乗謨(のりかた)の時に信濃田野口に陣屋を移し田野口藩として明治を迎えました。松平乗謨は西洋式築城術に関心が高く、陣屋を五角形の稜堡式城郭として築きました。時代の流れと藩の財政難などで廃藩置県に先立って廃藩となり、陣屋は未完成であったとされます。
東海古城研究会の会員向け情報メールにより、龍岡城内の田口小学校が来年度に閉校となり、龍岡城が「史跡龍岡城跡保存管理計画」に基づいて整備されると知りましたので、同計画を佐久市のホームページからダウンロードし資料として持参し見学に出かけました。 ※史跡龍岡城跡保存管理計画は→こちら
龍岡城 東方の峠越えの道を抑える戦国期の城郭がそれぞれ築かれていた
龍岡城の築城は、戦国期の城郭とは目的が異なっていたと思われ、奥殿陣屋が手狭だったので領地として広かった田野口に移って陣屋を築いたとされます。藩主松平乗謨のこだわりから、西洋式の五稜郭形式の陣屋建設となったようですが、残念ながら幕末の藩の財政は厳しく、地元の協力はあったものの、築城は未完で断念されは明治の廃藩置県以前に藩自体が消滅したようです。
龍岡城 もうちょっとで完成だった五稜郭と 北西に少し離れた枡形が見どころ
砲台から穴門の間が未完だったようです。当時砲台に実際に大砲が据えられたかどうかは未確認です。北西方向の田野口の入り口にあたる部分に石垣で築かれた枡形が見事で、ここも見どころでした。
龍岡城 田口城(五稜郭展望台)からの眺望
龍岡城の北側の山にある田口城の一角に五稜郭展望台が設けられていました。ここからの眺めもGoodでしたが、それにもまして田口城が興味深かったので、別途紹介したいと思います。
龍岡城 大手門付近の土塁と堀と橋 東から 左手に田口小学校の校庭
大手門の建物はありませんが、周辺の土塁、堀などは良く残っていました。橋は後世の再建と思われます。堀幅は10mそこそこで、函館の五稜郭の半分もないくらいですので、実戦では役立たなかったであろうと言われますが陣屋の堀だとすれば立派のものだと思いました。
龍岡城 であいの館と石造物
出会いの館前には岡崎市から贈られた石造物がありました。田野口藩は岡崎市の奥殿藩の飛び地だった縁で、毎年岡崎市の家康行列の時にはゆかりの町として、臼田町がオープンカーで参加していましたが、最近は臼田町が佐久市に合併して佐久市として参加しています。石造物は石の街「石都 岡崎」を象徴しているのでしょうね。
龍岡城 大手門跡の土塁断面 左奥に田口招魂社
招魂社は藩主を祀っていましたが、後に戊辰戦争の戦死者なども祀っている神社。今回の整備計画では存続が検討課題に挙がっているようです。
龍岡城 黒門 入口の堀と橋 車が通れる橋になっている
黒門も建物は在りませんが門の入口の土塁、堀と橋がありました。堀に架かる橋は今は車の通れる頑丈な橋ですが、後世のものと思われます。橋の北側(写真手前)は水堀ですが、南側は堀がありませんでした。未完の部分なのか後世に埋められたのかはっきりしませんでしたが武者返しのある石垣は一部が残っていました。
龍岡城 陣屋内部 小学校には「ありがとう田口小学校」の横断幕が 奥に お台所
お台所は藩邸の時にあった場所から移されているようです。一時は学校の校舎としても使われたようですが今は資料館となっていました(一般公開はされていない)。「ありがとう田口小学校」は閉校に関連するものでしょうが、校舎は取り壊されるようで一抹の寂しさを感じました。
龍岡城 砲台 南から 人物と比較して高さがわかる
龍岡城の西側隅には砲台とされる一角がありました。築城当時ここに大砲が据えられたかどうかは確認できませんでしたが五稜の稜堡式城郭として5方向に砲台を設けてないので、戦いを想定した城郭ではなかったのではないかともいわれます。陣屋としてみれば西側の上田、佐久方面と枡形方向に睨みを利かせる砲台として、十分に役割を果たしたのではないかと思いましたがどうでしょう。
龍岡城 穴門付近の遺構 穴門は左手にあった
穴門付近は雑草で細かな部分まではわかりませんでしたが、穴門入口には石造りの凹状の仕切りが堀に設けられていました。この仕切りの東側(写真奥)は水堀でした。凹状の構造は堀の水の調整用なのかもしれませんね。仕切りの西側(写真手前)は曖昧な地形で、当初から未完の部分だったのか、昭和7年の復原時に手つかずだったのかは不明でした。
龍岡城 東辺の常用門付近 土塁、堀、橋などの遺構がよくわかる
昭和7年の復原と保存会のその後の継続的な整備のおかげで、常用門付近は見やすくなっていました。橋は後世の架け替えだと思われますが、車の通行は禁止でした。陣屋の東側には家臣の屋敷や高札場、それ以前の陣屋などが有り、人口も多かったようですので多くの人がこの橋を渡り常用門をくぐったのではないでしょうか。
龍岡城 仮総門と枡形 西から
今は駐車場になっていましたが、陣屋を囲むように設けられていた柵矢来から陣屋に入る為の外枡形を備えたの仮総門がこの付近にあったようです。保存計画の中で復元されるといいですね。
龍岡城 北西の枡形 西から 見どころです!
上田、佐久方面からのメインの街道が田野口に入る部分に立派な石造りの枡形が設けられていました。車の道は枡形の北側を通っていますのでこの枡形とここを通る街道は完存状態で見ごたえあり!の見どころでした。ここには城址碑や案内板も立てられて、保存会の整備が行き届いていました。
龍岡城 枡形 東から
完存状態の枡形でカッコよかったので、思わず写真を何枚も撮ってしまいました。龍岡城を見学される際には忘れずにこの枡形も見学しましょう! 真夏でも整備が行き届いていましたので見やすくて保存会の方に感謝です!
田ノ口館/蕃松院 裏山に田ノ口城
戦国時代に依田信蕃が田野口を領して館を設けたとされ、裏山に詰城として田口城を築いたと伝わります。後に長男の康国が信蕃の菩提を弔うために館跡に蕃松院を建立したとされます。田ノ口館から田口城への見学路はあるようですが山上まで耕作地化が行われたため往時の城道は明確ではなさそうです。
龍岡城は未完の五稜郭として知られていますが、藩主の思い入れの強い幕末の陣屋だったのではないかと思いながら、資料片手に見学してみると見どころが多くて良かったです。三河(奥殿)との関連も興味深そうですので一度調べてみたいと思いました。