城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

隠岐城 近江 祖先が隠岐国主の隠岐氏によっての築かれたと伝承される城館

2024-08-24 | 歴史
隠岐城は滋賀県甲賀市甲賀町隠岐にあります。隠岐城は隠岐国主佐々木判官義清の遠孫といわれる佐々木兵庫頭清三が築き、自らを隠岐と改め同時に村名を隠岐と改めたと伝わります(諸説あり!)。今回の参考資料は(1)「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編纂委員会編2010  (2)「甲賀郡志 下」 滋賀県甲賀郡教育会編1971  (3)「滋賀県中世城郭分布調査 2 (甲賀の城)」滋賀県教育委員会1984 などです。

隠岐城 周辺の城郭群は隠岐氏の支城の可能性が考えられている
 隠岐氏の出自には諸説があるようですが、周囲の城館群は隠岐氏の支配下にあり、隠岐城は領主の居館の位置付けだった可能性が考えられるようです。
隠岐城 今は大岡寺となり遺構の改変もある 寺号石柱に隠岐城跡とある
 大岡(たいこう)寺は、隠岐城の廃城後に当初は清三寺、後に大岡寺と称した寺院が建立されたようです(諸説あり)。近年墓地の造成、道路工事、堂宇の拡大などで周囲を取り巻いていた土塁などがかなり失われたようです。

隠岐城 1984年ごろの概略図  資料(3)より作図
 資料(3)によると滋賀県中世城郭分布調査当時の隠岐城には、周囲を取り巻く土塁等が残存していたようです。

隠岐城 現況の概略図
 現況の隠岐城は周囲を取り巻いていた土塁の多くが削り取られて、墓地として利用され、一部①②が残されていました。東側の椿神社は壬申の乱の頃の
創建とされ後に隠岐氏によって再建されたと伝承されます。

隠岐城 虎口 土塁①と②の間を抜ける参道が大手道だったか
 現況は車で登る道が別に設けられていますが、往時は寺号石柱④の立つ歩いて登る南側の参道が王手道だったと思われます。

隠岐城 大手道東側の帯曲輪地形③ 大手道から
 南辺の残欠土塁②の南下には帯曲輪状の平場③が在りました。南辺土塁②とセットで急角度で高い切岸を作り出す効果があったように見えました。逆サイドの土塁①の南下にも同様の平場が在った可能性がありますが、現況は墓地となって改変がありそうでした。

隠岐城 残欠土塁② 北西から 右下に大手道
 資料(3)によると、土塁②は幅が広かったようですが、現況は建物の為に削られているようでした。

隠岐城 残欠土塁② 東から   建物で削られたか
 土塁②は曲輪を南から東にかけて取り巻いていたようですが、現況は写真のように建物で削り取られ、東側は消滅していました。

隠岐城 南辺土塁① 墓地で改変されている
 南辺土塁①は墓地として利用されているため基底部を含めて改変を受けていました。


隠岐城 南西隅の土塁 北から 手前は土塁が削り取られている。
 西辺の土塁も墓地化でほとんど残っていませんでしたが、南西隅部はほぼ原形と思われる土塁の形状が残っていました。

隠岐城 西辺の法面 北から  コンクリートの擁壁が設けられている
 写真左側は土塁が削り取られて墓地として利用されていました。西側法面は下に住宅が迫っているためコンクリートの擁壁が設けられて改変を受けていました。

隠岐城 北西隅⑤ 北西下から
 北側は後世の車の道路や参道が設けられ改変を受けていました。資料(3)によるとこのあたりも土塁がグルッと取り巻いていたようですね。

隠岐城 椿神社 隠岐氏によって再建された
 椿神社の由緒によると、宇多天皇は壬申の乱に此の地に逃れ襲撃に遇い椿樹の洞孔に隠れて難を免れた。依って其の処に祠を建て皇祖を祀ったのが椿神社の創祀と伝えられます。

隠岐城 椿神社の佐々木五郎義清像
 当地に伝わる流鏑馬の元となった佐々木五郎義清の雄姿を映した像が椿神社の境内にありました。

隠岐城は、佐々木氏にまつわる古くからの歴史があり、多くの伝承が残されていてその成り立ちには諸説があるようです。城郭遺構としてはシンプルな形でしたが、改変前の資料なども参考にしながら楽しく見学ができてよかったです。