名護屋城は佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあります。東海古城研究会の九州地区特別見学会(2泊3日)で訪れた名護屋城、今回はその2です。参考資料は (1)見学会資料 (2)名護屋城跡ガイドマップ (3)「週刊名城を行く 佐賀城 名護屋城」小学館2005 (4)備前名護屋城図屏風 と諸国古城之図などです。※その1は→こちら
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名護屋城 ガイドマップに加筆
その1では大手口①→東出丸②→三ノ丸③→本丸と見学しました。その2では三ノ丸③→馬場⑥→弾正丸⑨→搦手口→二ノ丸⑦→と見学し本丸北東隅虎口へ至ります。
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名護屋城 三ノ丸南西櫓 鏡石が見どころ 通称馬場⑥側(西)から
三ノ丸の南西隅の櫓の鏡石は資料によると、場内最大の石が使われているとされ、馬場から三ノ丸に入る大名に見せつけていたのではないでしょうか。
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名護屋城 本丸南辺新石垣 左に通称馬場⑥ 東から
本丸南辺の馬場側の石垣は発掘調査の結果、本丸の拡張の際に馬場側に15mほどせり出して新しい石垣が積まれたと確認されました。当初の馬場の幅はもっと広かったということですね。この石垣も部分的に破却された跡が生々しかったです。※通称馬場は、細長い曲輪なので後に「馬場」と名付けたようで、新石垣が築かれる前は幅の広い二ノ丸と一体となった大きな曲輪だった可能性がありそうですね。
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名護屋城 通称馬場⑥途中の櫓台18 東から 奥に二ノ丸
馬場⑥は長さが約120mあり、南側の高石垣の途中には破却跡が残る櫓台18が設けられていました。高石垣の上には狭間のある土塀が巡っていたでしょうから、南側への守りは意外に堅固だったようですね。
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名護屋城 通称馬場⑥ 左上に本丸 西(二ノ丸)から 右奥に櫓台18
馬場の西端部は本丸新石垣の南西隅でもあります。写真のように破却された本丸の石垣がそのまま生々しく残されていました。馬場⑥の西端部の馬場入口には発掘調査で門が無かったのが確認されたようです。
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名護屋城 弾正丸 手前(北)の二ノ丸から
弾正丸は変則的な形の大きな曲輪で、搦手口がありました。弾正丸の一部(西側)は果樹園になっているようで、作業中でした。写真のブルーシートの辺りには水道施設が在ったようですが今は撤去された模様です。
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名護屋城 弾正丸の搦手口 東から
搦手口は二度折れて城内に入る大手道と同じくらい幅のある枡形を伴った道でした。南下の城外側からだと高低差の有る坂道の奥に石垣が見える道になっていました。資料によると搦手口の大きさから、登城する大名はこの搦手口から弾正丸→馬場→三ノ丸→本丸へ入った可能性が指摘されていました。
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名護屋城 通称馬場⑥の高石垣 手前下に石採場b 弾正丸から
先ほど通った馬場⑥の南側の高石垣も一部が破却されていました。資料によると眼下に石採場bが在ったようですが、具体的な遺構は確認できませんでした。※石採場bはガイドマップには掲載なし
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名護屋城 石採場跡a 弾正丸北西下 北西から byGoogleマップ
ガイドマップには弾正丸の北西部に「石採場」とありましたので、Googleマップで確認してみました。弾正丸北西部には写真のような岩盤がむき出しの地形がみられ、この辺りに石採場が在ったのかもしれないと思いました。
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名護屋城 広々とした二ノ丸⑦ 右上に本丸⑤ 弾正丸⑨より
二ノ丸には一部に建物が在ったようですが、資料によると広い面積は船手口から運び入れた物資の集積場所の可能性があるとされます。
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二ノ丸には一部に建物が在ったようですが、資料によると広い面積は船手口から運び入れた物資の集積場所の可能性があるとされます。
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名護屋城 二ノ丸西辺石垣の合坂(あいざか) 北東から
二ノ丸の西辺は石垣が築かれ「合坂」と称する向かい合わせの石段がもうけられていました。石垣の上には狭間のある土塀が設けられていたと思われ西側の守りも堅固だったと思われます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/5b/71a76309679e22b5bf9c9e1a9d6c22c8.jpg)
名護屋城 船手口 南から 右に遊撃丸 左に二ノ丸西辺土塁
船手口は二ノ丸に物資を運び込む為か、間口の広い虎口でした。遊撃丸から打ち下ろしの位置にありました。写真のように遊撃丸の南西隅部の石垣の破却も鮮明でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/6b/df483705defdadf238ccaad519cbbdad.png)
名護屋城 戦後の空中写真
現況は船手口からの見学路は水手口方面へ伸びていますが、港から水手口へ物資を運び込む別の道が在ったのではないかと思い空中写真で探してみました。昭和39年の空中写真に道16が確認出来ますので、往時の運搬路もこの辺りだったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/e7/96af997e79d15ad0f69cf2556f8111ec.jpg)
名護屋城 遊撃丸 東から
その1で天守台から見下ろした遊撃丸の周囲には石垣が巡っていて残存状態も良好でした。本丸の西辺を守るとともに船手口の虎口を守る役割の曲輪だった可能性がありそうですね。※石垣上に狭間のある土塀が取り巻いていた姿を想像しました。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/e2/d342dd757c3c5f8dd2f37bac0a2741ee.jpg)
名護屋城 本丸北下の通路 右上に本丸 左下に水手曲輪 北西から
本丸北辺も破却され通路に大量の石と土砂が堆積しているようで、写真のように元の石垣が部分的に顔を出していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/eb/a484a06a5212e53070b6f5ed30ed0c7d.jpg)
二ノ丸の西辺は石垣が築かれ「合坂」と称する向かい合わせの石段がもうけられていました。石垣の上には狭間のある土塀が設けられていたと思われ西側の守りも堅固だったと思われます。
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名護屋城 船手口 南から 右に遊撃丸 左に二ノ丸西辺土塁
船手口は二ノ丸に物資を運び込む為か、間口の広い虎口でした。遊撃丸から打ち下ろしの位置にありました。写真のように遊撃丸の南西隅部の石垣の破却も鮮明でした。
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名護屋城 戦後の空中写真
現況は船手口からの見学路は水手口方面へ伸びていますが、港から水手口へ物資を運び込む別の道が在ったのではないかと思い空中写真で探してみました。昭和39年の空中写真に道16が確認出来ますので、往時の運搬路もこの辺りだったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
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名護屋城 遊撃丸 東から
その1で天守台から見下ろした遊撃丸の周囲には石垣が巡っていて残存状態も良好でした。本丸の西辺を守るとともに船手口の虎口を守る役割の曲輪だった可能性がありそうですね。※石垣上に狭間のある土塀が取り巻いていた姿を想像しました。
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名護屋城 本丸北下の通路 右上に本丸 左下に水手曲輪 北西から
本丸北辺も破却され通路に大量の石と土砂が堆積しているようで、写真のように元の石垣が部分的に顔を出していました。
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名護屋城 本丸北東隅虎口17 北から
水手口からの道と本丸北辺下の道の合流点付近に本丸北東隅の虎口17が開口していました。居館が在ったとされる山里丸から秀吉が本丸に入るために使われた虎口ではないかと想像しました。
丸一日かけて見学したい名護屋城、時間の制約で見学できなかった遺構もありましたが、興味深い多くの遺構と破城による破却の生々しい痕跡などを速足でしたが楽しく見学し堪能できてよかったです。※その1は→こちら
水手口からの道と本丸北辺下の道の合流点付近に本丸北東隅の虎口17が開口していました。居館が在ったとされる山里丸から秀吉が本丸に入るために使われた虎口ではないかと想像しました。
丸一日かけて見学したい名護屋城、時間の制約で見学できなかった遺構もありましたが、興味深い多くの遺構と破城による破却の生々しい痕跡などを速足でしたが楽しく見学し堪能できてよかったです。※その1は→こちら