今から70年前のことです。1944年3月、鳥取県の磯部さんは「日本海軍第5根拠地隊第56警備隊」としてテニアン島に派遣されたそうです。白爺は、この年の4月に引揚船に乗りましたから、約1ヶ月はすぐ近くで暮らしていたと思うと感無量です。特にEmiiは、磯部さんたちが自宅の敷地内に「高角砲」を配備して、日々訓練に励んでいる姿を見ているので、更に懐かしく思っているようです。
この本は、磯部さんが1995 . . . 本文を読む
ノースウエストがデルタと合併して、現在はデルタ航空の時代になりました。
成田のゲートも、搭乗口は同じですがDLの表示になりました。
白爺が初めてテニアンへ行ったときには、まだ小さかったタガ族遺跡の椰子も、すっかり大木に変わってしまいました。
付近に建立されている慰霊碑は、テニアン観光のコースに入ったようで、テニアンを訪れた人は概ね参拝してくれるようになりました . . . 本文を読む
白爺が大好きだったJALが、今度はノースウエスト航空に変わってしまいました。
サイパンとテニアンの間を飛ぶ飛行機も、西濃運輸のカンガール便飛行機もありましたが、この時期になると概ねフリーダム便だけになってしまいました。
フレミングもレストランが約2倍に増築されて、現在の容貌になりました。
室内には、鉄板焼きが新設されました。
周囲 . . . 本文を読む
白爺が心から待ち望んでいた日本の飛行機が、サイパン空路に就航しました。
この年は、図らずも白爺が仕事をリタイヤした年になります。
我が家を午前3時頃に愛車で出発して、成田空港の駐車場に車を預けてから、JALのカウンターに行くようにもなりました。
「何故そんなに早く空港に行くの?」と不思議に思う方もいるでしょう。
でも、この写真を見てください。
当時は、個人旅行者 . . . 本文を読む
1990年頃になると、白爺たちはテニアン旅行のベテランになっていました。
テニアンからの引揚者を大勢引率して、慰霊に出かけていました。
旅行の計画も旅行社に依頼せず、自分で参加者の搭乗券からホテルの宿泊まで企画・手配をしていました。
サイパンからテニアンへの飛行機も、「フリーダム航空」のカウンターで英語も話せないのに購入できるようになっていました。
テニアンで . . . 本文を読む
1981年の大晦日、フレミングホテルのスタッフと一緒に、年越し蕎麦を食べながら
NHKの短波放送から流れる「紅白歌合戦」を聞いているところです。
この頃になると日本からの慰霊団や観光客が多く見られるようになりました。
ホテルの部屋が満室になると、白爺たちはスタッフに無理を頼まれて、古い別館の部屋に一時移されることがありました。
この写真がその別館です。
ホテルのスタッフは、白爺たちを「仲間内 . . . 本文を読む
1980年に行ったときには、珊瑚で造られた素朴な「テニアン飛行場」が見られましたが、それは取り壊されていました。
そして近代的な空港ビルが建設中でした。
サイパンからの飛行機は、前回と同じように「アイスランド航空」の飛行機です。
当時の「定期時刻表」が写真に残っていました。
時刻表を見ると一日に4往復しかフライトしていなかったようです。
白爺たちは、最終便で . . . 本文を読む
白爺が、戦後初めてテニアンに渡ったのは1974年です。
Emiiはこれより前から行っていたのですが、白爺は仕事の関係で簡単に海外への旅行は出来ませんでした。
初めて搭乗した飛行機は、1970年開港の成田空港をフライトした「コンチネンタル航空」の飛行機でした。
サイパンの空港には、まだゲートが造られていないので、飛行機から歩いてビルの中に入りました。
休みが取れない白爺も「年末年始を利用して故 . . . 本文を読む
昔の話・・
我が家の記録によりますと、
「Emiiの両親・家族は昭和3年11月3日に横浜港を出港し、11月10日にテニアン島に到着した。
到着後は、マルポにて南洋興発の農地開拓に従事する。」
とあります。
この写真は、昭和7年に発行した「南洋興発開拓写真帖」のもので、Emiiの家を造っているものではありませんが、到着した頃のテニアンには野豚や野鶏が沢山いたと聞きました。
この写真 . . . 本文を読む
昔の話・・
現在は「タガハウス」と言っていますが、白爺達が住んでいた頃は「タガ族の遺跡」と言っていた場所の写真です。
1931年発行のアルバムにある写真ですが、この頃は2本の石柱が立っていました。
その後発行されたアルバムも2本の石柱なので、当時は2本立っていたようです。
白爺が眺めていた記憶も同じなのですが、認知症があるといけないので黙っています。
今の話・・
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昔の話・・
玉砕で投降した民間人が収容されている「テニアンキャンプ」に、収容されている子供を対象とする小学校と中学校が開設されたそうです。
Emiiは、難関の選抜試験を通過して「テニアン中学」に入校したと言っています。
アメリカ人の中心先生はムック先生、日本人の中心先生は池田先生で、毎日授業が行われたそうです。
島内で生き残った学校の先生や、南洋興発専習学校関 . . . 本文を読む
昔の話・・
66年前のテニアンです。
前回のカロリナス写真にあった米軍のスピーカーに誘われたのか、日本の兵隊さんに勧められたのか分かりませんが、民間人が投降して洞窟から出てきた写真のようです。
投降してきた人達は、50人ずつに区切られてトラックでキャンプ(収容所)へ連れて行かれたそうです。
Emiiの話では、家族が分割されると必死で妨害していたそうです。
アメリカ兵に捕まれば、「日本の婦女 . . . 本文を読む
昔の話・・
チューロビーチに上陸したアメリカ海兵隊は、次々日本の守備隊を撃破してソンソン町まで到達しました。
賑やかだったソンソン町は廃墟となっていますが、
その中をアメリカ軍はカロリナス方面に進軍しているようです。
北から追われた日本の兵隊さんは、最後の砦とするためカロリナス台地の洞窟に撤退しました。
勿論民間人も同じで、Emiiも両親とカロリナスの洞窟に避難したそうです。
台地に登るジ . . . 本文を読む
昔の話・・
日本の守備隊が玉砕すると、テニアン島は直ちに米軍のB29基地に変貌しました。
テニアンはサイパンのように高い山がないので、まさに不沈空母。
長い滑走路も4本建設されて、日本空襲の拠点になったようです。
白爺たちの児童動員では、モッコを担いで滑走路造りをしていたのですが、さすがアメリカの基地建設技術には驚かされますねー。
テニアンからのB29は、富士山を . . . 本文を読む
昔の話・・
愛機の前でポーズをとるテニアン航空隊?の兵隊さんです。
出陣体制完了。
いよいよアメリカ機動部隊攻撃に出陣、最後のチェックです。
滑走路には陸上攻撃機が離陸して行きます。
整備員達基地に残る兵隊さんは、帽振りで無事の帰還を祈ります。
以上白爺の想像です。
これらの写真は、テニアンから帰還したアメリカ兵のHPに発表されている写真です
おそらく戦死した日 . . . 本文を読む