view Ⅲ history Ⅱ
綾瀬川 ・綾なす川の瀬の記憶
>「たたらの遺跡」なりけり・
たたら模型 in 県立歴史博物館 画
・大山から類推すれば、昔から「山あるところの木立・山林」で、緑は深かったようです・
大宮台地の小室・舌状台地西縁の斜傾地に「大山遺跡」はあった。
発見は、偶然!!1974年「県立がんセンター」の建設現場で発見・・16基の製鉄炉が発見されて以来、県内屈指の古代製鉄遺跡であることが確認された。年代鑑定では、平安時代のものと推定されたという。
要するに「たたら」の遺跡である。これほどの大規模の「たたら」は、付近の河川が豊富な含有の砂鉄を含んでいることを意味する。
「大山遺跡」を発掘調査したチームは、発見した埋蔵品と「たたら」の炉などを県立歴史博物館で陳列しました。
・参考:大山遺跡 | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団 クイックすると明細が見えます
旧・県立ガンセンター 画
・「砂鉄の川」・・近くには、綾瀬川が貫流する。そして、その支流と思われる原市川も流れる。伊奈氏の「丸山陣屋(=丸山城)」は、かって水堀(=原市沼?)に囲まれていたらしい。
・「大山遺跡」の鉄鋼炉の原料の砂鉄が、綾瀬川かその支流と思われる原市川から採取されたことは確かとして、砂鉄の含有の多い砂礫は、どのあたりから流下しものだろうか、興味を惹かれる。
・おそらく、弥生期以降の急速な農耕文化の発展に寄与し、富と権力の源泉になった、つまり武力の源泉になった”鉄”というものは、古代文明の大いなる「ロマン」なのだ。
・綾瀬川とは?
・今の荒川の西遷前、江戸時代初期以前には、荒川は大宮台地の東縁を流れていたり、大宮台地の中を、浸食谷に削って流れていたらしい。今でもこの痕跡水路のことを、「元荒川」と呼んだり、「綾瀬川」と呼んだりしている。どうも、大宮台地は強固な岩盤を持った台地ではなく、浅めの浸食渓谷を幾筋も持った台地であることが地形からうかがい知ることができる。---・幾筋もの水路を持った昔の荒川・---だったがゆえに、「綾瀬川」という名が付いたのではないか?
大宮台地 画
・砂鉄は、磁鉄鉱、チタン鉄鉱よりできるが、もともと花崗岩に含有していたものが風化してできる場合が多く、どこにでもある場合が多いが、採算点というコストパフォーマンスのスウィッチをオンにしなければ、「たたら」までは成立しないわけで・・。荒川河原には、確かに砂鉄はあるが、どうもこの採算点をクリヤーしているとは思えないわけで・・。荒川源流は、秩父山系であり、かって確かに良質な「金鉱」や「銅鉱」が存在したのですが、鉄鉱山はあまり聞いたことがない。
・とすれば、綾瀬川の水脈に、昔の荒川をはめ込んでみても、砂鉄の源流は見えてこないわけで・・
・「大山遺跡」の鉄鋼炉の原料の砂鉄は、どこから来たのか?・・気になるところである。
・「大山遺跡」の綾瀬川の下流に川口があり、鋳物の街として有名だが、この川口の河原に、江戸時代に砂鉄堀小屋があったことが、「木曽海道六十九次」・浮世絵の中に描かれている。
・また、---窪田蔵郎氏は、入間川上流の加治丘陵を形成する豊岡礫層に良質の砂鉄あり、その総鉄量は鎌倉砂鉄の約二倍あると ... しかし、やがて、高技術を持った川口の金山衆(河越一族)に”たたら”と”鍛冶”は集約されていき、入間・飯能の鍛冶文化---という記録が残り、豊富な砂鉄の含有の証をしめしている。
大宮台地・拡大図 画
・綾瀬川がの上流が、むかし入間川だったという可能性はなくはなさそうだが、その道の学者ではない筆者が証拠立てる術もない。
・ただ、想像だが、水流が強ければ、水路は無理に曲がるよりも、直線的に大宮台地に抉り込んでいく方が自然の流れとも取れるわけで・・・そのように考える方が、砂鉄集積の河床を考える上では、合理的だと思う。