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ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

三州街道(R153) 道の駅 信州平谷 ・・・ひまわりの里

2013-08-17 18:39:31 | 日記

三州街道(R153) 道の駅信州平谷 ・・・ひまわりの里

併設されている「信州平谷温泉ひまわりの湯」「しょうかん亭」「ほっとパークひらや郷(Go!!)」、標高920m

県境、平谷に設営されたこの道の駅は、思いのほか人気者らしい・・・・・

人気の秘密を探って見ると、まず、田舎の風景、自然の豊かさ・・赤石山系の端の山の中だから当たり前・・三河の母なる大河、矢作川の源流付近・・ここがポイントかも知れない・・そして、温泉設備・たぶん鉱泉の沸かし湯だろうが、ことのほか、すこぶる評判がいい・・そして清潔な付随設備・トイレなど、と比較的経済的な食事処など・・・

もとより、貶すつもりもないが、かなり欠点の少ない道の駅といえようか、と思う。・・こんなに褒めると、道の駅平谷のポチか回し者と思われかも知れないが、それはない・・・・・。

周辺のひまわり畑・・・

 

ここが、温泉施設・・ひまわりの湯、と言うらしい。

 

      駐車場風景

写真では、スペースに余裕がありそうだが、かなり広い駐車場はほぼ満車状態・・・・・。車の8割が、三河ナンバーです。

R153線は、昔三州街道と言われた。つまり、信州と三河を結ぶ道路なのです。県境の平谷の隣は、もう豊田市なのです。愛知県豊田市なのだから、愛知県です。

ですが、塩の道三州街道を、歴史として読み込んできた自分には、どうもすっきり来ません。飯田から豊田まで、表示では約80Kmぐらいになっています。平谷から県境を越える豊田まで20分ぐらいでいけそうです。平成の大合併で、足助や稲武あたりが豊田になっていると言うことでしょうか。

どうも、この車の三河ナンバーの数の多さを見ますと、ドライブ一時間半以内の三河の人達の、田舎的オアシスに、平谷が認定されている様子です・・・冬は、数カ所、スキー場もできたそうですし・・・

 

   ・・平谷の隣村の根羽村は、もとは三河だったみたいですよ。

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五平餅・・

せっかくだからと、近辺の旧跡を見て見ると、平谷には意外と少ない。三州街道を、飯田から辿ると、まず駒場、そして浪合、続いて平谷、そして根羽と連なる。根羽を過ぎると、そこはもう、三河、通称は奥三河と呼ばれる地区となる。奥三河を含めてこの一帯を、勝手に名付ければ、”五平餅食文化圏”となる。五平餅が、発祥を、三河とするのか、信濃とするのか、それは各(オノオノ)が主張しているので、どちらかに組みするつもりはない。五平が作ったのか、御幣に似ていたからなのか、は御幣に似ていたからの名の由来に賛成する。御幣とは・・神社などで、注連縄にぶら下がる、あの菱形状の白い紙の連なりを指し、外界の邪気から聖なる領域を”バリヤー”するものである。・・神社は、御幣により護られた神域・・・・・菓子など無かった時代、五平餅は、”はれ”の時に食する貴重な食べ物だったらしい。

四つの集落・・

駒場(コマンバ)、浪合、平谷、根羽の集落を見ると、駒場と浪合は比較的大きな集落をなし、旧跡も多い。・・・駒場は古代に東山道の古道の分岐点で、木曽を通る東山道の脇往還として栄え、塩の道の宿場としても有名で、現代で言う”トラックターミナル”の昔版の”馬のターミナル”=駒場であったみたいだ。古くは、小笠原守護家の、そして武田信玄の東方の守り、駒場城もあった。駒場は武田信玄の終焉(しゆうえん)の地(長岳寺)もここにある。・・・浪合は、駒場から分岐して足助、岡崎方面に向かう三州街道の宿場である。ここにも信玄は”浪合関”を設けて、織田・徳川の脅威を防いでいたらしい。更に昔の南北朝時代、南朝の将軍、宗良親王が死んだ後、息子の尹良親王は、ここ浪合で、新田軍とともに、幕府軍と戦い、ここで討ち死にしたらしい。尹良親王の墓もあるという。・・この尹良親王伝承はかなり疑わしい点もあるが、南朝軍が幕府軍と戦った痕跡は確からしい。・・・平谷と根羽は、三州街道、塩の道にあり、関の外に存在し、垣外(ガイト)であった。とくに根羽は、信玄によって信濃に属したが、住民は三河を向いているという。

 

 

 

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桶谷と柄山 二つのかくれ里

2013-08-16 20:54:12 | 史跡

桶谷と柄山 二つのかくれ里

秋葉街道(R152)をさらに南下すると、分岐に到る。右手にひたすら行くと、中央道松川ICに通じる。左手に行くと、大鹿村中心部の大河原地区に通じる。大河原地区は、南朝の征東将軍の宗良親王の本拠地の所、寄ってみたい気持ちがやまやまなれど、今日は午後6時より、本来の目的の法事が待っていて、PM5:30までにはたどり着かねばならない。そこでハンドルを右に切り、小渋川沿いに下降する。暫くすると、渓谷を見下ろす景観の良いところに出て、駐車スペースもあるようだ。小渋ダムのこの先にあるようだ。この渓谷を渡す橋に、桶谷橋の名前がついている。ここが桶谷なのだ。

桶谷・・・
この桶谷は、古くは王家谷と書き、北条道や北条坂の地名が残り、北条を名字とする四家(1家は分家)があり、頭(上)屋敷、別当、木戸口を名乗っていたという。だが、昭和に「小渋ダム」が出来て沈んだという。さらに奥が四徳で、昔北条時行が潜んだと言われる四徳小屋があったという。・・と書いて、さっと理解出来る人がいるのか、疑わしい。

そこで簡略に、まず北条時行だが、時代を建武の新政頃に遡る。後醍醐天皇の宣下を受けた足利兄弟と新田義貞は、長年続いた鎌倉幕府の北条家を打ち破り、先に後醍醐天皇の政権、そして直ぐに足利幕府を作ることになる。この場合の北条家は、後に小田原で勢力を拡大してくる早雲の北条家と区分するため、前北条家とか北条得宗家と名付けて区分する。ちなみに、早雲が祖の北条家は、後北条家とか小田原北条家とかいわれる。方便である。

打ち負られた北条得宗家には、子が二人いたが、長男が殺され、次男は、北条得宗家の御身内であった諏訪家に守られて、諏訪地方で秘して育てられ成人する。彼が北条時行、一般には相模次郎と呼ばれた得宗家の嫡流である。この地方に隠棲したのは、どうも幼年の頃ではなさそうで、その後の可能性が高い。

成人した相模次郎は、諏訪家と諏訪神党の協力で、中先代の戦いを起こす。信濃国は、鎌倉幕府に恩義の侍が多く、上野、下野、武蔵野の勢力を合流しながら、鎌倉に攻め入り、最初は勝利するが、やがて破れ、信濃に舞い戻る。ここで、足利尊氏と仲違いした後醍醐天皇の南朝と合流し、大徳王寺城で、今一度再起の旗をあげる。ここでも敗れるわけだが、この頃の前後に、この桶谷に隠棲した可能性があるという。成人した相模次郎(北条時行)は当然妻子がいてもおかしくない。

頭(上)屋敷、別当、木戸口は、主家の北条時行かその妻子、別当は経済を差配し、木戸口は門番守衛を意味する。この場合の敵は、松尾小笠原の信濃守護家となる。追っ手の目に付きやすい「王家谷」では、いかにも都合が悪い。そこで桶谷になったという。・・ここから更に山奥に、四徳というがあるという。ここにも、時行の隠れ家があるという。・・秋葉街道沿いのこの地区は、諏訪大社の神領の内。いずれも伝承だが、桶谷の北条四家は、確認されている事項と聞く。

 

            ・・小渋ダム 日本一美しいダム?ともいわれる 

このダムとダム湖は、赤石山系の伊那山脈を背景に、ダム風景でもっとも美しい一つとされています。そして、幾つかの歴史を湖底に秘めているとも言われています。

この桶谷にあった神社は、小渋ダムに沈んだが、沈む前に大鹿村の神社に合祀されたと聞きます。桶谷の北条四家も、ダムの底に沈んだのかも知れません。そうなれば、もう手の届かぬところとなり、伝承は伝承として、静かに消えていくのかも知れません。

さて、桶谷橋を通ると対岸の生田の方に出られます。ナビで、行く先を、松川東小学校に設定します。山奥で迷ったら、それこそ大変です。右手は眼下に小渋ダムを、左手は落石注意の崖壁、道は1.5車線の狭い道。対向車が来ないことを祈りつつ、出発です。幸い、杖突峠のようなバイクツーリングの集団にも普通車の対向車にも出会わずに幾つかのトンネルを潜ると、小学校前に行き着きました。

ここにも、生田柄山があります。
その昔は、木地師の里、そして、明治大正期は大鹿村へ、物資を運ぶ運搬業の問屋をした人もいたそうです。ここの木地師の血が、自分の中に八分の一ぐらい流れているそうです。孤高の民として、菊の紋章を表し、惟喬親王を敬愛した木地師の末裔です。

         ・・墓を探してみたが五七の桐紋のようで、菊紋らしきが擦れています。

ここで不思議発見です。

墓石の碑銘は、戒名ではありません。「大蔵某+命」と「大蔵某姫+命」の並記です。たぶん夫婦の墓なのでしょう。経済的な理由ではなさそうです。

むかしに、神道では、墓石に、戒名は彫らずに、「本名と命」を彫ったという文章を,かすかに記憶しています。だがその出典も思い出せませんが、確か、神道には”来世という黄泉の世界観”はなく、従って、戒名は異神の宗教の思想であり、忌み嫌ったのではないでしょうか。死後の世界、地獄とか極楽は、仏教の話です。ここの大蔵一族は、神道の信心深い木地師であったようです。

そうしますと、次ぎに述べる「柄山神社」は、かれらにかなり重要な氏神になります。

 ・・転記 4月始め頃?

松川町生田地区の柄山神社のシダレザクラと神社境内の写真です。柄山自治会所も兼ねているようです。
・・・古くから木地師の桜として有名。樹齢は約200年、根元の幹周りは約4m、高さは約15m。
 
二つの柄山(からやま)について

北川柄山
北川柄山(大鹿村北入地区)は、現在存在しない地区である。明治になって、山の生業でまず3家が住み、やがて入植が増え、最高時40戸弱を数え、やがて全村移転で消えた地区であるからという。昭和36災害によって、家屋全財産が流され、再建が不可能とされたからである。明治以前、北川は小渋川の支流の沢(川)の名前であった。勿論以前は、人が住んでいなかった地区である。移り住んだ人達のもとは、中川村や生田の山の人が多かった、と書いてあった。
北川柄山に住んだ人達は、もと生田柄山のひと、と考えるのは、あながち無理な筋道でも無さそうだ。この北川柄山に最初に住んだ家は、2人は大蔵と呼び、1人は小椋と呼んだ。木地師であったという。・・・大鹿村誌より

生田柄山
生田柄山に大蔵姓と小椋姓を名乗る家もあるそうだ。そこの大蔵家と小椋姓も木地師をルーツに持つとあった。この生田柄山は、江戸時代元禄の頃まで人家と地名を確認できていない。それまで長峯あるいは長峰とだけ呼ばれた地域だったらしい。・・松川町史
生田と大鹿を分離して考えるのは地元の考えと違うようです。大鹿村誌でも生田柄山も生田桶谷も、あたかも自分の村のような記載です。それと桶谷の神社遺産は小渋ダムに沈む前、保管を依頼されたのは大鹿の民族館だそうです。

           ・・生田柄山風景

 

木地師 について
木地師と言う者がある。
生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。

年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。

木地師文書と言うものがある。
この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。

白洲正子の「かくれ里」の中に、永源寺町の小椋谷に、奉納された道祖神があり、碑の記銘に、奉納下伊那郡大蔵某とあるそうです。今となっては特定しようにも出来ませんが、大平だと木曽郡と名乗る様な気がするので、ここいらの人の様な気がします。定かではありません。道祖神には、道しるべの意味と旅の途中で行き倒れた人の霊を慰める意味を含めたようにも思えます。

生田柄山から、赤石山脈を見上げると、”南信の骨をなし”て、実に”巍巍”として眼に写ります。

             ・・塩見岳       ・・・ 拝

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鹿塩川と北川露頭とかくれ里

2013-08-15 18:23:34 | 史跡

鹿塩川と北川露頭

 

  ・・鹿塩と北川、この文字に馴染んで知っている人は、地元以外では、かなり少ないと思う。

まず鹿塩・・・
この地区は大鹿村で、昔諏訪大社の神領で、諏訪神社の御調の動物の鹿が多く住んでいたため大鹿と名が付き、鹿は諏訪神社へのお供え物として貴重であったらしい。その地は、所々に塩泉が湧き、明治の頃に塩泉から塩を精製する工場も作られていた歴史もある。その場所は鹿塩(カジオ)と呼ばれ、この地区を流れる川を鹿塩(カジオ)川と呼んだ。
さらに大鹿村は、鹿塩地区と大河原地区に分かれる。この大河原地区からは、小渋川が流れ、やがて鹿塩川を合流し、天竜川へ流れ込む。この小渋川の上流の大河原地区の流れは、天竜川と逆行し、南から北へと流れる。これは、長谷を流れる三峰川も同様で、逆行する。天竜川は諏訪湖を源流に、浜松で太平洋に注ぐ大河で、北から南に貫流する。地図を開いた時、基本は、絶えず北が上を指す。この逆行は、ひとえに、中央構造線の存在に由来する。またこれは、地質学の領域であるが・・・


そして、大河原・・・
大鹿村大河原を有名にしているのは、南北朝時代の、後醍醐天皇の御子の宗良親王が、約四十年ぐらい、大鹿の大河原を本拠地にして、天皇から征東大将軍の称号を貰い、南朝勢力の指揮をした場所だからである。これが、大まかな鹿塩と大河原、・・大鹿の説明である。


北川はその、鹿塩の一部分である。そして、深山幽谷を文字通り風景にした地区である。
従って、この地名を認知している人は、地元を除けば、よほど歴史の好きな人と、地学・地質学の好事家に、昔は限られていた。

 

 ・・北川露頭説明板

最近この地区、大鹿の鹿塩の北川地区がかなり注目を浴びるようになってきているという。
それは、左右の地層帶がぶつかり合う地点、中央構造線の地層の断面がえぐり取られて、古代の姿を露出した、所謂”露頭”が、かなりのエネルギーを発生させているという。このエネルギーは、古い神社の大木の比ではない、凄まじさと言うが、まことに興味深い話で、ついつい体験を希望したくなる。この連中の類は、歴史の学徒でも地質学の学徒でもなさそうだ。おかげで、北川露頭の駐車場は時に満車になり、分杭峠から北川地区を走るR152線(秋葉街道)のこの区間が、国道でありながら二車線をとれない巾狭の道で、溢れた車が秋葉街道を塞ぎ、通行不能になることが度々あるようだ。従って、北川露頭見学者は、分杭の峠の駐車場で、マイクロバスへの乗り換えを強要されるそうだが、・・・本日は、何故か「フリーパス」。露頭の駐車場も、普通、軽の車が三台ぐらい・・・。

うす茶色に見えるのが領家変成帯の花崗岩、緑がかった青色に見えるのが三波川変成帯の緑色片岩

・・・地層帯のぶつかる部分は、砕かれて砂礫にになっています。・・圧力と熱が岩盤を砕いたのでしょうか・・

ここは、ゼロ磁場地帯に近いこともあり、パワースポットとしても有名

・・パワースポットの体験記です・・

・・断層上にいるととても体が温まりました。温泉に入っているわけではないですが、温泉に浸かったときのようなジンジン感が体を巡ります。不思議です。・・手にぶつぶつが出てきました。まるで高級霜降り牛のような色になりました。エネルギーの高い場所に行くとこのような現象がよく起こります。・・30分ほど滞在しましたが、体調がとても良くなりました。この間すれ違った方々は5グループだけです。とてもマイナーな北川露頭ですが、エネルギーのレベルはとても高いと感じました。また行ってみたいと思います。・・

・・・しかし、露頭に立ってみたが、自分にはよく分かりませんでした。

露頭の説明・・・これは、各説明文を要約したもので、当然受け売りです。
・領家変成帯の花崗岩と、三波川変成帯の緑色片岩の間が、地質境界の中央構造線です。暗色に見える地質境界の部分は、幅約1mの断層ガウジまたは断層各礫になっています。
・・領家変成帯は、中央構造線の内帯に接する変成岩帯である。高温低圧型の変成岩が分布する。これは、浜松市天竜区水窪の奥領家と言うところで発見されて名付けられたという。


・・三波川変成帯は、秩父の三波川の発見に由来すると言われる。この地層からは、恐竜の骨が発見されていることから、第四白亜紀から恐竜時代が始まったと見られる。神流川沿いの神流町の恐竜センターは、恐竜の骨と足跡の発見により作られたと聞きます。

よく化石が発見される地層は、この第四白亜紀からと言われます。

 

転記

三波川変成帯の岩石は、海洋プレートが沈む付近の地下15~30kmで変成作用を受けた低温高圧型の変成岩です。また領家変成帯の岩石は、海洋プレートが地下100km以上沈む付近でマグマが上昇し、高温で変成作用を受けた高温低圧型の変成岩です。ともに三波川変成帯と領家変成帯は、白亜紀に形成された対の変成帯です。 このように、両変成帯の岩石は、水平距離で60km以上、深さの差で5~20kmkm、離れたところにありました。

 

鹿塩川・・・ ・・ふだんは、穏やかな川で、ヤマメやイワナや鮎が沢山いそうです。しかし塩分を含んだ水質かどうかは、分かりません。たぶん、あまりにも薄められて、検出できないのでは、と思います。

鹿塩川は、まさにその中央構造線の真上、ライン上を流れる川です。先に見たように、地層帯のぶつかり合うラインは、何故か岩盤が粉砕されて礫になり、弱そうです。流れが穏やかの時はまだしも、台風や梅雨時は水嵩を増し、急流となりそうです。それも時を重ねれば、、岸壁を削り、谷を深くえぐっていきそうです。そのために、露頭を顕す場所も多くなりそうです。・・・そういえば大鹿村の違う箇所で、最近また、露頭が発見されたそうです・・中央構造線安康(あんこう)露頭

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  S36災害の時、この北川地区に大洪水と土砂崩れが襲いました。

・・・・・写真は、その時の土砂崩れの、爪痕の風景です。場所は、北川露頭のある、まさに山麓上部に当たります。

三六災害・・・・・ 多いときには110戸もの家があったというが、昭和36年の災害(三六災害)当時は39戸だった。三六災害時には、村人は集団キャンプをして救助を待った。1.5km程北に中央構造線の北川露頭がある。・・北川分校 鹿塩小学校北川分校は、土石流に襲われ、いち早く破壊されてしまった。一方、大花沢からの土石流で鹿塩川の河床が上昇し、川沿いの民家は土砂に埋没してしまった。分校は1962(昭和37)年に閉校。北川集落はこの水害を機に、1963(昭和38)年に廃村となった。

 

神社跡   神社の祠の中に、閻魔さまでしょうか?・・・

 

  色んな石碑、下伊那農業高校分校の文字も見えます。

 

かくれ里・・・木地師の村

軽トラでやってきた、農家の夫婦と話をしました。蜜蜂の箱らしきを二つもっています。花の多い所において、蜜をとるのでしょう。かってあったという、北川集落のことを聞いてみました。S36災害で、北川集落は、壊滅的損害を受けて、集落全員が集落を去ったと言います。S36災害の時、この集落は、深山幽谷の奥地でかなり離れており、人里の天竜川流域も被害甚大なこともあり、着の身着のままで集団キャンプし、食料もなく、約一週間救援を待ったと言います。いままでの居住地も土砂崩れで埋まり、木地師の生業のろくろも家も失い、やがて全員がこの地を去ったと伝えられています。

北川露頭の駐車場の所が、木地師の大蔵家の跡地と教えてくれました。ようやく宅地の跡の石垣のみを幾つか残しています。

              

 

下の沢に、人間の手による石の積み替えの痕跡が見えます。どうやら水車小屋の跡に見えます。木地師ですから、水車を使って、ろくろを回していたようです。

 

 昭和三六年  長野県下伊那郡大鹿村鹿塩字北川大字柄山 ・・・この住所は、確かに存在した。

いま、柄山の人々はこの地を去り、地図の上から、柄山の地名が消えてしまった。 ・・・ご冥福を

 

 

 

 

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高遠そばと更級そば  保科家とは  ・・・雑談記

2013-08-09 19:01:38 | グルメ

高遠そばと更級そば   ・・・雑談記

                   高遠そば・・・ 転記1

                      転記2

一昔前より、”そば好き”の間で有名になり、少しずつ復権している”そば”がある。”そば通”が会津で食し、独特な風味で好評を得、各地に広まりつつある”高遠そば”のことである。会津で高遠の名は、歴史に関心のある方なら、直ぐに想像されようが、会津松平藩二十三万石の初代藩主は、三代将軍家光の弟保科正之公であり、保科正之は、信州高遠の食文化を、”高遠以来”の家臣とともに会津に連れてきたようである。
その高遠そばは、大根おろしの絞り汁にそばつゆを割って、焼き味噌を溶かして、大根おろしと玉葱を薬味にして食べる盛りそばだそうだ。この大根は、辛み大根で、通常の煮物や漬け物には適さないらしい。玉葱の薬味は、長ネギに置き換えられ処もあるという。
高遠そばのルーツの高遠では、この大根そばの食文化は、途絶えていたと聞く。最近の人気で、会津からの逆輸入で、少しずつ復活させているそば屋があるとも聞く。高遠そばのもっと前のルーツは・・・行者そばと言うらしい。行者そばは、奈良時代のはじめ修験道の開祖と言われる「役小角(えんのこずね)」が、木曽駒ヶ岳で修行の折り、木曽駒の登山道の一つ黒川林道の途中にある「内の萱」の里人に篤いもてなしを受けたお礼に渡したそばの種が伝承で今日に至っていると聞く。・・・「行者は、常備食としてそばを持ち歩いていました。行者の修行の中には五穀を食べない五穀断ちがあるのです、がそばは五穀に入らないのです。またそばの粉は、火を使わなくても食べられるので、行者の常備食としては最適であった・・・というわけで。保科家が高遠の領主になるずっと昔、木曽駒を含む木曽の領地は、木曾義仲の末裔が治めており、木曽家の隆盛期には、高遠も木曽家の領分でした。その頃、高遠そばの食文化は、高遠に根付いたものと思われます。

*会津のそば処で、高遠そばの名店を紹介してくれてるコメントが届いています。参考にどうぞ!

 

 

            更級そば・・・ 転記3

            転記4

                                                  飯野藩の陣屋は、富津市下飯野


会津藩の藩主保科正之は、将軍家光の弟と言うことで、家光から”松平”を名乗るように勧められたそうです。正之は義理堅く律儀な人で、養父に保科正光に育てられた恩義から、”松平”の姓を名乗ることを断りました。しかし、徳川家の親藩第一、御三家に次ぐ第四親戚筋ということで、会津藩四代目から”松平”を名乗ることになりました。そこで、名門の”保科”の名が途絶えて消えることを惜しんだ末、養父保科正光の弟、祖父正直の子の正貞に、飯野藩を創設して保科家を継がせました。この正貞は、父を保科正直、母を家康の妹の多劫姫とします。その保科飯野藩の正貞のもとへ、信州保科の里から、衣料用の布地を商いに来る者がいました。場所は、木更津の飯野藩か飯野藩の江戸屋敷かは、調べても分かりません。恐らく両方のような気がします。この布地は、絹か麻の様な気がしますが、飯野藩江戸屋敷は、麻布にあったところを見ると、麻の方が理屈に合いそうです。この布地の商人は、正貞や飯野藩の家臣と懇意になると、商いが終わると、そばを自分で打ち、振る舞ったと言います。正貞から七代目の藩主は、このそばが大変好きで、そばの店を出すように勧めたと言います。資金援助もあったのかもしれません。そばの希少な一番粉(粗挽きでそばの実の芯(胚乳)が割れたものを細かく篩った白く細かい粉)が主体のさらしな粉と小麦粉(江戸時代は蕎麦粉よりも高価)の混合粉を湯捏ねした白い蕎麦で、かなり上等な食べ物だったようです。これが、江戸における更級そばの由来です。木更津で、古い更級そばの店を探したが、見つかりません。あったのに潰れたか、元々無かったか、分かりませんが、江戸では今も存続しています。店の名は、昔の商いから布屋を付け、更に明治に堀井を苗字としたと聞きます。「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」・・・この名前のまま営業しているかどうか、気になります。

 

・・・麻布の名前・・・

阿佐布、安座部といわれた古い集落が始まりだったようです。初めて歴史に記録されたのは意外に新しく、永禄2年(1559)と言われています。その後、元禄時代(1688~)ころから今の「麻布」が使われるようになったようです。多分このあたりで麻の布を作っていたのでしょう。
アイヌ語のアサップル(向こう側へ渡る?)を語源と言う方もいるようですが定かではありません。古く縄文までさかのぼって考えるより、むしろ単純に 鎌倉時代か 室町時代、或いは江戸時代 のころ この辺りで麻を作っていたと考えた方がいいのかもしれません。・・・麻布の地名考より

・・・これを読むと、そば屋の堀井家(明治に苗字を許されてから)が布地を商っていたのが、たまたま麻布だったという、偶然で、深読みの勇み足と言うところでしょうか・・・

 
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大淵寺  月影堂 札所二十七番 ・・・秩父巡礼

2013-08-06 19:17:27 | 史跡

大淵寺 札所二十七番

 本堂・・本日改装中 参詣不可・・

   ・・護国観音とか、白衣観音とか。

手に持つは”剣”、創建が戦時中と聞きます。時代の背景がなせる像・・・。どうも、仏が剣を持つ姿は、好きにはなれません。寺門を守る像の仁王とか阿修羅とか・・は仏に分類しないのかも知りません。坊主や和尚が生臭いのはよく分かっており、嫌いでもありません。計画施工は札所七番法長寺和尚と聞きます。そうすると、護国観音は大淵寺でないのかも知れませんが、細かいことは、さて置きましょうか・・

 ・ 月影堂・ここが参詣の目的    ・・・千匹猿・月影堂内

千匹猿・・・祈りの千匹猿  横瀬町 

横瀬町芦ヶ久保の赤谷地区の人たちに親しまれている赤谷観音堂に「災いがサル」という手縫いの「千匹猿」の飾り付けが行われた。 この風習は、横瀬・秩父だけものでしょうか。あまり目の良くない自分は、遠目に見て、”寺に千羽鶴が飾ってある” と見間違えました。近づくと、布に綿入れをした猿の連なりです。丁寧な造りで、色も鮮やかです・・・。場所柄、布地は絹が似合いますが、綿のサテン地のダンプル加工でも光沢は出ます。

横瀬の歴史民俗資料館で見てから、他の寺、確か明智寺?でも、またここでも見ました。


 月影堂脇祠

      ・・祠内の石仏、ふたつとも 不動明王 でしょうか

 

 ・・大淵寺山門  ・・延命水、飲めば長生きできるのかな・・・

 

・・・ふと眼にした文字、”月宮” ”月影” は、なにやら関連はあるのでしょうか?・・・

浦和の岸町に鎮座。 調宮(つきのみや)とも称される神社で、 調(つき)の名称から月待信仰・二十三夜と関連され月の宮、月待の宮、月読大明神とも呼ばれ、 月のウサギを愛する神となったようで・・・調の宮(みつぎのみや)・・、諸国に屯倉が置かれた時、その跡に祀った社のことを一般に調宮・・・・・、思いつきのきっかけは、札所二十六番岩井堂に、月宮の文字を記憶し、二十七番でも月の文字を見た時、租庸調の税制を思い出し、御調、貢ぎを想像しました。別当が牧場の頭目に、税務署長も兼務していたなんて・・・恐らく考えすぎでしょう、が・・

 住所;秩父市上影森411

 

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岩井堂 円融寺の奥の院  札所二十六番 ・・・秩父巡礼

2013-08-05 03:19:38 | 史跡

岩井堂 札所二十六番

懸崖造り(けんがいづくり)、舞台造り(ぶたいづくり)、崖造り(がけづくり)・・・

             ・転記  曰く、名品・・

                  ○謂れ多々秩父の礼所蝉時雨    ・・裕

             友人から、一句送ってきたので、記載しておきます。夕立の間に日差しが・・・

 

「観音霊験記」の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。

秩父次郎重忠
當山は、空を凌ぎし高山にて、猶奥院に登りては、月宮の桂も折る可、深谷を臨みては、森々として結清水煩悩 の垢を清め、岩上には愛宕金毘羅を鎮護の神と崇め、都て岩竇に弘法大師の護摩壇石佛、國禪師の座禪石、その外 諸神諸佛の尊体堅固に並立玉ふ絶景の霊場也。
當國の住人、秩父別当武基が玄孫、太郎重弘此尊像を信じ、大檀那たるがゆへ、其子重能、此子重忠ことに信じて、 霊験を蒙ること少なからず。

文章はそんなに難解でもなさそうなので、現代語に訳さずにそのまま記載します。 

愛宕金比羅とは何でしょう・・・もともと象頭山にあった松尾寺に防火の神の愛宕と金毘羅が鎮守神として祀られており、修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に象頭山に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする

役行者が、修験者として秩父に来た時に、もとは海の守神の金比羅を、自身と修験者の守りで連れてきてしまった、と言うところが正解かと思います。                    

観音堂・・・                        

岩井堂へたどり着く道。昭和電工の敷地内を通り、琴平神社の脇の道を昇ると、緩やかな石段の道になり、そこからだと15-20分で観音堂に着く。石段数は300段と多いが、かなり緩やかなので、それほどの疲労感はない。昭和電工といえば、武甲の石灰を使った肥料の工場なのか・・。

 石段の参道・・・                      

そこで、弘法大師とか國禪師とかが来て、霊験地として、名が固まったのでしょう。こうしてみていると、修験者と秩父次郎との繋がりが一層つよく思えます。秩父別当の武基の別当はほぼ牧監と同意味で、官製の牧場主をあらわし、畠山重忠(=秩父次郎)はその嫡流であったようです。この一族が金比羅大権現の信者で、大檀家でもあったようです。

秩父は、どうみても昔から水田に適した土地柄には見えません。それにもかかわらず、比較的人口が多そうです。さらに加えて、寺の数も人口に比してかなり多そうです。これは、かっても今も持ち続けている疑問です。そんな疑念が根底にあるので、ずっと山の生業には注意を払って見てきたつもりです。林業については、外秩父までは、流通手段から理解の範囲でしたが、秩父、奥秩父に到ると林業の生業は、理解の範囲を超えます。秩父銘仙を中心とした絹織物と養蚕は、ある時期秩父の主力の生業でしたが、浮き沈み激しく、長年には、地方を潤さなかったようです。そうすると、やはり鉱山でしょうか・・・。いまでは、石灰岩・・セメントと肥料・・・。

むかしは、牧・馬牧場で、今は石灰・・というところでしょうか。

             岩の窪みに・・・  閻魔様・・

 

扉に彫刻、浮かし彫り?・・・   

 

畠山重忠の時代に、秩父の何処が牧(・・牧場)というのでなく、秩父が全体牧場だったような気がする。板東平家の流れをくみ、役行者との関係を持ち、秩父丹党との親戚関係もあり、重忠の祖父(武基)が高麗族の説もあることから、ここ岩井堂は、秩父が凝縮しているようだ。

それはともかく、比較的面倒な道程ながら、岩井堂は巡礼者に、なぜか頗る評判がいい。

岩井堂住所;秩父市下影森1450

 

 

 

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円融寺 ぼたんの寺  札所二十六番 ・・・秩父巡礼

2013-08-05 02:37:33 | 史跡

円融寺 札所二十六番

本堂 改築したばかりか・・・新しく、そして清潔・・

寺の脇から裏手の山へ・かなり手の入った庭園

         

牡丹だろうか、・・・この規模だと、花の咲く頃は・・かなり見応えがありそうだ・・

              

・・・牡丹園

だが・・秩父巡礼の雰囲気となにか違う・・

この寺には、奥の院があるという・・・ここから歩いて30分、石段、のべ300段・・・聞くところによると、秩父巡礼の、最たる巡礼の良さを、皆ここで、感じるらしい。いざ、奥の院へ・・・

 

住所:秩父市下影森348、

 

 

 

 

 

 

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久昌寺  弁天池と蓮池  札所二十五番 ・・・秩父巡礼

2013-08-03 14:03:41 | 史跡

久昌寺 札所二十五番 

    

 本堂・・・御手判寺

 久昌寺の山門ですが、本堂まで距離があります。昔は茅葺だったそうです。

御手判というのは、札所開創の時、性空上人らが冥土からもたらした石札の一種で閻魔大王の手判石だと言われています。石柱のすぐ向こうに小さな仁王門。千社札の一枚も貼られていない門(むかしは・茅葺の門)は小さいながら品格高い仁王像を両袖に納めています。

 ・・・ 観音堂 ・・現在は改装中でシートが掛かり中の拝観は不可。

   古くは、この水上に弁天堂がまつられ参詣したというが、今は池の対岸にある久昌寺の境内に移されている。

この池は、弁天池というのだそうです。よく見ると、鯉が泳いでいます。2007年に「新潟地震」が起きて、新潟中越村の錦鯉が飼育不能になりました。その時、中越の錦鯉の一部をを緊急避難した池が、この弁天池だそうです。和尚が言うには、最近白い鳥が集団でやってきて、池の錦鯉を食ってしまい困っているとのこと、そういえばTVで、関東に海猫が大発生して、生け簀の魚が被害を受けた報道がありましたが、・・・そうか、ここが被害地でしたか・・・

 

     弁天池に一段高く、蓮池があります。古代蓮です。

   

                        

彼岸花の一種でしょうか。花の色はピンクで、百合の形。葉っぱのないので、彼岸花と想像・・・詳しくないので、こちら方面にあかるい方は、フォローを御願いします。

 

遠望に山が見えます。・・・山と山の間にダムが見えます・・・・

住所;秩父市久那2215

 

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法泉寺 高台から武甲山が見える 札所二十四番 ・・・秩父巡礼

2013-08-03 11:35:47 | 史跡

 法泉寺  札所二十四番

116段の石段、あえぎあえぎ・・・登りつくと、木立を抜けて涼風が肌を撫でる。

   石段を登り切るとひと休み、・・ 一休さん

本堂・・

    木立の間に、武甲山・・・     高台から眺める絶景の、山と里

 

  ・幹 ・梢 ・・・白檀・・ビャクダン、香木

白檀のことをですか?と聞いたら、住職の奥さん?が、そうですよ、植木屋さんが字を間違えたみたい、と言っていました。この大きさの白檀は、珍しいみたいです。

   ・・黒文字の木。葉の黒い模様が文字に見えるとか・・自分には分からない

こちらも、葉を揉むと、葉液から強い香りを発する。

・・・・・ 白檀とか黒文字の木とか、香の木がなぜここなのか、この寺との関係は分からない・・・

・・・・・・・・

                黒文字の香る礼所の夏涼し   裕

               友人から送られた句を披露します。

                                             ・・・・・・・・・

こぼれ話 「楊枝」・・・黒文字の木は、香り高い楊枝になる

クロモジは、暖地の里山に、普通に生えている。その楊枝はどこでも作られていたのだろう。

千葉県君津市久留里では、古く江戸時代から、このクロモジの楊枝を特産品としていた。久留里藩の藩士が貧しさをしのぐため、内職として楊枝を作っていたらしい。それは久留里城の異名である雨城の名を使った、「雨城(うじょう)楊枝」の名になった。樹皮の部分に、香りの成分が含まれるため、皮つきで楊枝は作られる。細工加工された楊枝で、和菓子などに添えられているのは、誰でも見たことがあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

場所;秩父市別所1586

 

 

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