わたしも南京大虐殺博物館へ行ったことは前にも書いたが、あの博物館にはこれと言った正確な資料は何もないといえる。写真や人骨はばらばらと飾ってあるだけである。
大体日本軍が斬首している写真が手に入るはずは無いのである。
内戦中であったため、いろいろな殺戮は行われていた。
また、民間人に混じって紅衛兵がいるなどと言われると日本軍も疑心暗鬼となって民間人を殺しているであろう。
日本への大空襲は民間人の殺戮である。原爆投下などは完全な無差別実験である。
日本は自業自得だと言われるが、慥かに自業自得なのである。
では何が自業自得であったかというと、この辺が他人とわたしと見解がことなるところである。
日本はあまりにも重化学工業を優先しすぎ工業社会を作ってしまったために、石油資源が不可欠になってしまった。海外への進出なども欧米をならって満州国などを作り、列強から反感を買い、さらに石油資源を求めて南下政策に走った。
つまりその時にはすでに嘗ての日本というものは形骸すらも残っていなかったのである。
富国強兵のみで突っ走ったが、自国の伝統も文化も顧みず、軍属と財閥と皇族を守る戦争をやったのである。もはや、文化的な日本人はどこにもいなかった。
植民地主義に反したのではなく、広く植民地主義を日本は取り入れ、アジアの主権を獲得しようとしたのである。これは国益に叶うものかどうか、戦争の結末を見ればわかる。
南京市には長江(揚子江)が流れている。
南京大虐殺ではその川を死体が埋め尽くし蕩々と何日も流れていたという証言があるが、何日も革を眺めていられるほど悠長な時代ではなかった。それほど死体があると下流にどんどん流されるが、死体にはどんどんどんどんガスが溜まり巨大な風船のようになり、やがて肉はちぎれて、骨の重みで沈んで行く。もしそうなら今でも川のそこにはあまたの死骸があることだろう。
フィリピンレイテ島へ行くと、畑からでもわんさかと人骨が出てくる。
30万人の遺体などはそう簡単に回収できるものではない。
まさに斬首の写真よりも揚子江を蕩々と流れる累々とした死体を撮影する方が説得力がある。
結局人間はことあるごとに人間を殺すことに決着を求める動物である。
さまざまな生物を殺すことによって生きながらえている人間だけが安穏と生き延びられるはずはない。そのために神は人間同士の殺戮を使嗾しているのである。
たとえばソクラテスほどの人間でないと人は人をすぐに恨んでしまうのである。
知っていることと知らないことの区別が付かない我々は、南京大虐殺事件も本当のことは何も知らないのである。たとえ実際そこにいた人間でも、その場のことは分かってもそれが年月によって記憶は正確性を欠くため、本当のことがそのまま伝えることは出来ない。
あらゆる人間は自分の空想で物語り、どのような資料にもやはり嘘があるのである。
つまり、必ずその考えに対しての反論があり、そのために又戦争が起こるという愚挙が繰り返される。
やはり、冷静なソクラテスほどの人間でない限り戦争は又起こるのである。
わたしは虚構の徒である。何を知っているのか、たぶん何もしらない。
嫌いな他人はいても、そんなに憎めない性分である。ましてその人間を殺すというよりは、その中に潜む何か神秘的なものを殺傷することの方が恐ろしい気がする。
詳しくはわたしの著作『ロシアン・ルーレットをする猿たち』をご覧下さい。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090915k0000e040071000c.html
名古屋市長:南京大虐殺発言で友好提携に懸念も
名古屋市議会9月定例会の一般質問で15日、河村たかし市長が南京大虐殺について「一般的な戦闘行為が誤解されて伝わっている」などと発言した問題で、吉田隆一議長は毎日新聞の取材に「南京市との友好提携解消にもつながりかねない」と懸念を示した。名古屋市は78年に南京市と友好都市の提携をしており、市長発言が両市の関係に影響を与える可能性もある。
市長の発言を受け、江上博之市議(共産)は「市長の立場で発言する内容ではない」と議事録から削除するよう議長に要求した。一方、藤沢忠将市議(自民)は「政治家は口に出したことに責任を持つことが大事だ」と削除に反対したため、議長預かりとなった。
吉田議長は「とても一人で判断できる問題ではない。各会派の意見も聞き、発言の影響や答弁内容を精査して判断する」と話している。【丸山進】