太陽の光をうけ、送っていった奈良市内への道すがらの銀杏も最後の彩を
放ち、東大寺大仏殿も色鮮やかな若草山を背景に輝いていた。
『多聞城と松永久秀の戦跡を巡る!』講座の話の続きを。
前回は「松永久秀が築城した多聞城跡へ」では築城の縄張りの痕跡を城跡
の若草中学校へ伺い現状を見学しましたが、今までの二回の発掘調査での
成果では石垣は確認されなかったが、瓦や礎石が発掘され、見せる恒久的
な建物の存在が疑われた。さらに新たな文書等の文献的検索などによると、
松永久秀の先見性の成果として、後の天守の四階ヤクラや多聞櫓なども
近世城郭の先駆けとしての多聞城の姿が読み取れ、さらなる発掘調査が
必要と考えられる。
①その華麗さは人々を驚かせた。吉田神道宗家の日記 永禄8年1565年2月
「十一日 己卯 雨下 多聞山一見了 華麗驚耳目了」
②白壁に瓦葺の屋根、室内には障壁画が。
③能舞台や美しい庭園もあった。②③は耶蘇会士日本通信より一部
永禄8年にポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダの報告書簡より
④城内に茶室が 松屋日記、
・永禄六年正月十一日朝 於多聞山御茶湯 六畳敷 北向 右カマエ
主人松永弾正少弼殿 ・・・
・永禄八年正月廿九日 於多聞山霜台(松永のこと)御茶湯
堺隆専 宗易(千利休のこと) 久政 ・・・
北向四畳半 左カツ・・・
⑤畳を敷いた部屋がたくさんあった。東寺百合文書(東寺の畳職人宛より)
畳表100帖分が多聞城に運び込まれた
「・・・霜台様畳面都合百帖之内、先日六拾帖下申候、相残四拾帖分・・・」
⑥四階建ての櫓を解体した。多聞院日記より
(天正五年)六月五日 筒井順慶昨日ヨリ上洛 タモン山四階ヤクラ懐了
⑦松永久秀の創始と考えられる「多聞櫓」があった。和事始より
「松永弾正久秀・・・
多門の城を築き、長屋を建しを、後世是を法として多門と号す」
⑧御殿は信長に再利用される
・織田信長黒印状で筒井順慶に御殿の解体を命令した。岡本文書より
・京都公家・山科言継の日記、言継御記より
「天正四年七月十九日、二條殿(信長のこと)御屋敷多門之城之主殿被引寄
・・・・・九月十三日 二條之主殿驚目者也」
*信長の屋敷に多聞城の主殿が運ばれ、9月に素晴らしさに驚く
⑨四階ヤクラも信長が安土城で再利用された
・筒井順慶に四階ヤクラの解体を命令した信長の朱印状
岐阜市歴史博物館所蔵文書より
「多聞有之高矢倉 此方ヘ取越候 其方領中人夫申付 至木津相届之上
山城代官両三人ニ可相渡候 ・・・
天正五年六月一日 信長朱印 筒井順慶」
・多聞院日記にも解体を記されている。
*「安土城のモデルは多聞城か」という議論のもとになりそう。
ただ多聞城は築城が始まった1559年から戦国時代に翻弄され、1573年に
信長に明け渡され、さらに信長の破却命令で終わる1577年までの18年間
短い城の運命であった。
さあこれからは多聞城跡を下り、三好三人衆との戦いの陣跡、東大寺境内
転害門へと行くことになりました。
佐保川対岸から善称寺山の断崖を見る。
佐保川の架かる橋が見えますか、この橋は江戸時代の石橋の上に架かっており、
松永久秀と三好三人衆との戦いの中、1567年の東大寺大仏殿の戦いで炎上する
大仏殿、公慶上人の発願によって1708年の再建されるのですが、この大屋根を
支える横木『虹梁(こうりょう)』の二本が1703年8月19日、木津から奈良坂を
越え奈良町に入るため、佐保川を渡る橋で、木橋では重さに耐えられず、
新たに石橋に作り替えられた石橋が奥にまだ残されていた。
北向き地蔵さんに挨拶をして、
松永久秀が陣を置いた東大寺・転害門へと向いました。
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