先日、本屋に行ったとき、ふと目に付いて、交通新聞社文庫の「JR東日本はこうして車両をつくってきた」という本を買って来て読んだ。
この本、非常に分かりやすい文章で鉄道好きならさらさらと読めるのでお勧めであるし、執筆者も国鉄から長野運転所助役(381系担当)だったりJR東日本運輸車両部長も務めた人の話なので長野にも縁があるといえばある本でもある。
国鉄からJR東日本という新会社発足などからの経営状況から社会的なニーズなどの車両設計の背景が書かれており、複雑で様々な理由から一つの車両形式が生まれることが分かる。
執筆に当たっての謝辞といえる部分で出て来る方々が現役でプレスリリースや雑誌等で名前をよく見かけるJR東日本の車両設計や運用などの車両分野の幹部たちであるから、JR東日本のこれまでの車両の設計思想に触れられた気分になれて読んでいて楽しくなる。
私が鉄道ファンとして趣味に入れ込むようになってから、鉄道ファンとしての価値観を形成する過程で多く聞いていたことに、鉄道ファン諸氏の「新型車両はダメだ」という発言であったり姿勢だった。
「〇〇が好きだ」という発言ならわかるが、「〇〇はダメだ」という発言が出来るのは鉄道ファンとしての博学多聞から生まれる発言なのかもしれない。
一方で鉄道事業者の車両設計は事業であって仕事であり、なにより社会に供される公共交通である。
そこには鉄道事業者の経営状況であったり、車両設計方針であったり、地上の運転設備だったり、社会的なニーズであったり、様々な理由や役割をもって一つの形式の車両は営業運転に投入されていく。
車両は、ざまざまな背景を以って送り出された商品である。
その背景は常に変化するものであって、古い車両が悪い、新しい車両が悪いという単純な問題でもなく、ましてや、ごく一部分を切り出してさも当然のように否定できる程、私は私の知識や勉強に自信はない。
そういう思想なので、私自身が同意しかねるケチ付けは自分の放り出したウンコ以上にどうでも良いんだけど、ウンコ以上に全力で適当に流していきたい。
国鉄の車両と、それを追いやった存在であろうJRの車両が並んで廃車置場いるのを見て、そんなことを思った次第。
こうやってみると、世代交代した車両の前後の面影と変化を感じられて、これまた車両設計の面白さを感じた長野の冬。
あずにゃんペロペロ