黎明の頃、千手発電所で 信濃川の河岸段丘の向こうに月が沈む。
1月だ2月だというのに余りにも雪が少ない妻有だけど、黎明の頃の寒さは雪国のそれで、三脚を立てるのにも手袋は必須だ。放水路から ゴウン ゴウン と唸る発電所を見てて、約100年前の計画から生きている当地での営みを感じたい。
当時の写真引用元 ©JSCE/DOBOHAKU ©土木学会 土木図書館委員会 ドボ博小委員会 ドボ鉄038自営電力の確保 絵はがき:信濃川発電所・千手発電所(新潟県)
http://dobohaku.com/dobotetsu/2020/01/05/038/
写真引用 (おそらく) 信濃川30周年記念誌 日本国有鉄道信濃川工事局∥編 日本国有鉄道信濃川工事局 1962.3
工事当時と戦時中と思われる千手発電所の姿だ。何度か紹介した写真だと思う。特に戦時中の防空のため戦時迷彩塗装が施された千手発電所建屋の姿は物々しくも、当該施設の時代背景を表している。戦時下でも首都圏の電車輸送の電力確保のためには必須の施設となったから。
2019年に東電信濃川発電所とJR千手発電所が80周年ということで、同時見学イベントが開かれたのだが、地元紙?(どこの新聞社か不明)にその時のJRの説明が載っていたので紹介したい。
”職員は「今は鉄管がむき出しになっているが、戦時中は爆撃から守るために一部をコンクリートで覆っていた」と語った。発電所の施設も同様の理由で、迷彩柄に塗られていた時期があったことを写真を交えて解説した。”
信濃川30周年記念誌は当時の信濃川発電所工事に従事した国鉄職員の手記を纏めたようなものである。
ある手記を引用したい。
”第2期工事
第2期工事は1期竣工に引続き着工、6年の歳月を費やして昭和20年に竣功した。仕事の内容は第1期工事の繰返しであり、面倒なことはなかった。しかし工事半にして大東亜戦争が起り、職員、労務者応召された外、国の内外に戦争関係の工事も多く、労務者の争奪戦がはげしく、官庁、請負人共甚だ困難した。また物価の値上りも多く民間会社では物価変動による請負単価の定期的修正を行うものも現れ、種々の影響をもたらした。しかしこれらの悪条件にも不拘、大体予定通りに工事が進行したのは幸である。特に戦争後期には空襲相つぎ、完成に近づいた施設物が、何時破壊されるかも知れず、その為、竣功式も繰上げて行ったが遂に被害なく終戦を迎えたのは幸である。”