昨日は飯山鉄道の越後鹿渡駅にかつて存在した本線と側線に関連する線路・軌道跡についての考察を書いた
続いては、これは工事現場の軌道に関するものであくまで余談としてとらえて欲しい内容になる
一部、昨日分の記事の補足というか訂正を含むものである
当時、トラック輸送はまだまだ一般的ではないから、現場での輸送の多くは軌道や索道、馬、人が担っていた時代だ
本工事においても、工事の行程に合わせてめまぐるしく軌道の位置が変わっているような状況であった
昨日までの話は、現地調査時点での推定であり、今回からは建設当時の写真を見た上での記述になる
それらの写真を見た上で、当たり前かもしれないが工事の行程にあわせて工事軌道はフレキシブルに使われていたことが分かった
年度ごとにまったく違う現場の様相がそこには写し込まれていた
とはいえ、飯山鉄道や軌道の全体像を写した写真があるわけではないことは再三述べている通りである
更に、それらを詳細に記録した工事誌なども存在していない
そのため、そもそも私の書いていることが完全なものではないことや、また、とはいえ写真がこれまでの私の調査や推定を一部覆すような推測も出来る材料にもなったことを了承した上で読んで欲しい
なお、写真については一切の複写が許可されなかったので、あくまで私が写真を見た上でしたためたメモからの記述となることをご容赦願いたい
まずは水路鉄管工事について、これは当時の写真によると、かなり手押し軌道に近いものだと分かる写真が残っていた
路盤均して簡単に砂利を敷いて、その上に枕木をポンとおいてレールを載せたような、それこそ小規模な鉱山などで見られる簡単な軌道の様子だった
写真には、三脚の要領で三本の鉄骨で組んだ櫓と、その下でトロッコに滑車で釣られた鉄管の輪切りが載っているという様子が見られた
トロッコも、現在でも鉄道現場の工事で使われる手押しトロの少し大きいくらいものである
発電所の鉄管が厚さ1m前後くらいの輪切りになってるものを載せて少しはみ出るくらいの大きさと考えてもらっていい
その写真では奥に鹿渡新田の集落が見られ、軌道は集落をまっすぐ貫いていた
あくまで撮影当時のものではある
お爺さんの話では上線は線路が繋がったまま社宅跡のある広場にあった鉄管工場を経て、水路鉄管の現場に通じていたと述べていたから、その後に上線と接続したのかもしれない
私も「上線と鉄管を現場に運んでいた線路は別なものだったのではないですか?」と食い下がって聞き返しているが、「いやいや、線路は繋がってそのまま行ってた」ということだった
更に昨日は上線が水路鉄管の手前付近、この辺りまで来ていたと書いた
この水路鉄管であるが、見ての通り、もともとの地盤を掘削して埋め込まれたものである
他の写真を見ても、現場で土砂等を運び出すために軌道を這わせていた様子が見られるから、掘削時や工事当初はこの辺りまでという時代はあったかもしれない
さて、この部分を掘削して水路鉄管が埋め込まれた後には、この鉄管を超えるように橋が作られ、現在は国道の一部となっている
これだ
そして、この橋の上にも軌道は通っている写真が見つかった
この軌道の先の広場には建屋がいくつも見られ、断定はできないが巻揚げ機のようなものがあったようである
ピンク色の線が上線で、紫色が軌道として、このような形態だったことが伺える写真が残っている
鉄骨櫓が輪切り鉄管を吊ってる写真が撮影された位置が、上線と軌道を切った辺りである
更に、鉄管上を跨ぐ橋の上に通じていた軌道も、軌道と言うような作りであったのが写真から分かった
これが、上線が社宅の広場までは来ていたにしろ、そこから現場までは単なる軌道だった説の可能性も提示したくなった次第である
続いて、下線である
肝心のスイッチバック構造の写真は残っていなかった
下線はどこまで来ていたのかを確認したい
その前に、現場の工事軌道についても少し紹介したい
まず、水力発電所の水車は地下に埋められるので掘削が必要らしい
発電所建屋が建てられる前に、その水車を据え付けるために掘削を行う
その掘削時の写真が残っていた
アングルはこの位置に近いイメージで
そこに写っていた工事軌道の様子を航空写真に合わせたい
その当時、下線が何処まで来ていたのかはその写真には写っていなかったから確認できていない
掘削時はまだ発電所工事の初期であるはずだから、ひょっとしたらまだ現場直近まで来ていなかったのかもしれない
とにもかくにも、工事軌道は現在の建屋のある辺りに張り巡らされていた
掘削しているから周りは斜面になるが、おおよそ鉄道ではありえない角度の斜面にまで軌道は伸びていた
更に、現在は変電設備のある辺りになるが、掘削現場から立ち上がるように大規模な櫓が組まれて、4本ほどの工事軌道が並行してインクラインのように櫓の上まで引き込まれていた
櫓は背景に写る飯山鉄道の鉄橋くらいの高さもあるのが写真から確認できた
おそらく、掘削して出た土砂をトロッコで運び持ち上げ、櫓の上から落とし現場内で土砂を再利用することで、河原の嵩上げなり敷地の拡大を行っていたと思われる
こんな大規模な設備まであったのかと感動したので、飯山鉄道とは繋がりのない工事軌道ではあるが紹介させてもらった
そして、下線であるが、発電所建屋の辺りの様子である
写真のアングルはこの様子
航空写真に合わせる
下線は建屋の前で分岐し、2本となっているのが確認出来た
その横の更に川側には工事軌道と思しき軌道が川に向かって伸びている
えぇ、現在の写真に写ってる柵の内側の舗装道路なんて、ほぼその工事軌道トレースしてそうです
発電所工事では水車や発電機などの大型重量物も貨物列車で飯山鉄道を経て運ばれてきた
それは信濃川電力開発の前から、飯山鉄道が十日町まで全通する前に行われた中津川水系の発電所工事は桑名川や西大滝まで鉄道で発電機や水車を運んできて、そこから舟で運んでいた
更に、飯山線内の駅で撮影されたと思しき(線路が少なくともは3線確認出来て、山側に貨物ホームがありそうな構造の駅。山側に駅舎なのか、建物がある。)、鉄道省と書かれたシキ5形らしい貨車が大型の貨物を運んでいる写真も残っている
大型の貨物は特に移動に苦労するものであったので、極力現場の近くまで鉄道で運んでいたようだから、下線が発電所建屋の直近まで来ていたことは納得がいくものであった
以上、これらが越後鹿渡駅の東電信濃川発電所の工事用貨物側線の調査結果である。
何かまた新たな発見があれば随時書きたいとは思うが、現状の調査結果として締めさせていただく。
こんにちは
鹿渡のことを調べていた時にこちらを偶然拝見しました。
母の実家は鹿渡駅前にあり旅館と萬屋を営んでおりました。
信濃川発電所着工があることを見込んでの開業でした。
引き込み線があったことなど詳しいことは聞いていませんが、関係者や労働者が村に多くきて店と旅館が繁盛しました。人手が足らず店をやる家族も工事に動員され大八車でダイナマイトを運んだこともあると聞きました。
良い時代だったようです。
失礼しました。
コメントありがとうございます。
発電所工事に伴う当時の鹿渡駅周辺の活況を示す貴重な口伝に感謝いたします。郷土史にも発電所工事を見込んでの出店開業が多くあったとされていますし、工事材料の運搬に地元の方が動員されたというのも資料として伝えられている通りです。郷土資料の文章と、生のお話が繋がって嬉しく思います。
どのようなエピソードでも結構ですので、お母さまのお話で思い出した当時のお話をコメントいただければ幸いです。
当時(昭和12年前後)お酒の流通が免許制になり、自由に販売できなかったため旅館のお客様にお出しするお酒を隣駅の越後田沢に買いに行った話を聞きました。空の一升瓶を抱え線路の上を皆んなで歩いて行ったらしいです。きっと引き込み線が枝分かれする付近も通ったことでしょう。
それと村の近所には朝鮮からいらした方も住んでいてキムチなどを漬ける様子も見られたようです。
工事のためだったと思われますがご苦労されたことでしょう。
免許制度と言うのも時代でしょうか。旅館関係者がそうして酒類を調達していたというのも初めてお聞きした次第です。お酒は工事関係者に需要があったでしょうから、切らすわけにもいかなかったでしょうね。
お酒の調達のため、鹿渡から線路を歩いていかれたという事は、おそらく飯山線の信濃川の鉄橋を渡り、越後田沢まで行かれたと推測されます。鹿渡にも引込線がありましたし、田沢の引込線も見ていたと思われます。些細なことでも構いませんので、線路についても当時の様子などお聞きでしたら教えていただきたい次第です。
郷土史によると、おっしゃる通りに東電信濃川発電所工事でも多くの人が朝鮮半島から家族で来ていたようです。独特のコミュニティを築いていたと郷土史にはありますが、地元の方とも仲良くしていたとも郷土史に書かれています。
今実家に帰省しており94歳の母にこちらをお見せしたら「あんな山の中に発電所と貯水池作るのに土方とか人夫、朝鮮人やらいっぱい来てほんとうにすごかったんだよ」「こうやって色んな資料を集めて調べているかたがいるんだね。すごいね。」と鹿渡を懐かしみ感動しております。
母はまだ当時小さくてこれ以上のことはわからないと言うことですが、どうぞ頑張ってくださいとのことです。
コメントありがとうございます。以前のコメントより、鹿渡在住の当時のお話を教えていただき私こそ感謝をいたします。
ご帰省の折にお母さまに私の拙い文章をお見せいただき恐縮するとともに、当時の鹿渡を知る方に当時を懐かしみ感動いただけるのは私としてはこれ以上ない喜びです。
これからも発電所建設当時の様子を調べてまいります。
もし可能であれば、お母さまから直接お話をお伺いする機会を頂ければと存じます。私は発電所建設当時の鹿渡を知りたい一心で資料を調べて文字に起こしてまいりました。しかし、資料に載らない声もお聞きし、それを文字として残したい気持ちがあります。ご検討のほど、よろしくお願いいたします。
コメントにて連絡先をいただければ、非公開の上でこちらから連絡を差し上げたいと存じます。
また心あたたかいメッセージありがとうございます。
せっかくのご提案ではありますが残念ながら母は現在やや認知も進んできており介護状態であるため直接お話しすることは難しいです。
しかし昔のことはよく憶えているので例えばご質問内容を文章で頂ければわかる範囲で母から聞き取り私からご連絡差し上げることは可能です。
因みに引き込み線についてはだいぶ聞きましたがあったこともわからないとのことでした。
松之山で生まれ発電所時代は鹿渡に住みのちは十日町駅前に住んで居ましたのでその辺りのことはある程度はわかると思います。
いずれも呉服屋、食堂、旅館などを営む家庭でした。
母から直接お伝えするというご希望に沿うことができず心苦しいですが何卒ご理解よろしくお願いします。
ご返信ありがとうございます。こちらこそご無理なお願いで失礼し、申し訳ございません。
質問させていただけるだけでありがたいお話です。質問事項をまとめましたら、こちらのコメント欄にてさせていただきます。