◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

(除雪作業風景)信濃川発電所材料運搬線

2021-06-28 21:06:28 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
「信濃川水力設備要覧 鐡道省東京電気事務所 昭和十五年三月二十日発行」より、更に写真を紹介する。なお、必要に応じて私がトリミングを行っている。


材料運搬線の除雪も、人夫を使っての人海戦術である。キャプションには、”材料運搬線除雪”程度にしか書かれていない。

豪雪地域故、軽便線の沿線は冬になれば数メートルは雪が積もる。なお、軽便線は積雪期は運休となっていたようで、4月下旬に運転を再開していたようである。というのも、十日町新聞でも冬期は軽便線が運休で十日町からの通勤もバスによることを伝える記事や、毎年四月二十日前後に軽便線客車列車の運転時刻が掲載されていたからだ。圧倒的な降積雪を前に、軽便線による冬期輸送は考慮されていなかったようだ。軽便線が冬期は運休というのは、戦後の工事でもそうであったようで、そのために各現場には冬期の工事で使用する分のセメント等を貯蓄しておくための倉庫を建築したとされる。


さて、上の写真も運転再開時期を反映するかのように、春の気温が緩んできた頃の様子であろうことが分かる。こんなに雪が積もっていても、これは冬の景色ではないことは雪の質感などから分かっていただけると思う。四月、新たに雪も積もらなくなり、軽便線の運転再開に向けて人夫を使って除雪作業を行っていたのだろう。
そして何より、この写真がどこで撮られたのかが気になる。見た限り線路の右手が山側であるから、左手に信濃川が流れているはずだ。つまり、信濃川上流方を見ている景色と言える。かなり深い切取りの底を、そこそこの勾配で線路は登ってきている。更に、右側斜面の上辺を前方の左カーブの先まで追っていくと、途中で途切れていることが分かる。掲載した写真だと分かりにくいが、途切れた先で中腹から生えているだろう杉の木が頭を覗かせている。連続した地形なら、杉がそんな風に生えるわけがない。つまり、カーブの先で崖に落ち込んでいる地形なのである。
写真から観察される条件から、私が考えた撮影地点は「鉢沢橋梁の高島方(千手方)」である。

 

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスよりUSA-R1338-79である。ここから、写真で撮影された区間を赤塗する。



おおよそここだろうと。空中写真からも鉢沢橋梁を渡ってすぐに切取りをカーブしながら川側に進路を向け、しばし直線で登っていく様子が確認できる。そして、想定される鉢沢川橋梁の高さと高島方の河岸段丘上とはかなりの高度差があるため、このような切取りで克服していたと推測していることは再三述べている通りだ。その大規模な切取りこそ、今回紹介した写真に写っている光景なのではないか。なお、この切取りは現在、土砂で埋め戻されている。なんとなくの痕跡は残っているものの、この光景は今は見られない。ましてや、当時の路盤は地中にあって辿ることはできない。こうして、当時の写真を見付けては、往時の様子を知ることが出来るのみである。

 
最後に、現在の現地の写真を見てみよう。左の写真は、当時(右)の写真の線路の直線上の右側の斜面の上から撮影したと言えそうだ。
特定への判断基準となるだろう背景の山が写ってないので比較することが出来なかったため、次に現地を訪れる際には山の形と睨めっこしながら、確認したいと考えている。

信濃川発電所材料運搬線(浅河原調整池南側)

2021-06-21 22:35:32 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
まず、紹介するのは浅河原調整池と小泉付近の土堰堤工事地区をトリミングした空中写真だ。元画像は「USA-R1907-28 撮影日1948/10/12(昭23) 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」である。

 
例によってポンチ絵で材料運搬線のおおよその部分をトレースしている。小泉車庫構内の側線は端折った。今回はそこについて深く言及するわけではないので。

更に、本記事で書きたい部分を示すと、以下の右図の赤線部分である。
 

赤線部分が鐙坂手前で見切れているけど、この戦後の米軍撮影のUSA-R1907-〇〇シリーズはここで切れてしまっているのである。個人的には浅河原調整池を中心とした当時の写真が欲しい所だけど、インターネットで見られるだけでも時代の恩恵がすさまじい話なので、ありがたく使わせて貰っている次第である。


さて、浅河原調整池の南側である。

この区間はこれまでも当ブログではどうやって材料運搬線が崖を克服したか明言を避けてきたはずだ。かなりの推測で逃げてきた。

まず、私がそう判断した理由を、googleのストリートビューで現地を紹介して示したい。


連絡水槽を左手に見つつの、鐙坂へ向かう坂道だ。相当な急坂で、とても蒸気機関車というか鉄道で抜けられる勾配に思えない。ましてや、ここは十日町から宮中方面に向けて材料を満載した貨車が登る筈の坂だ。急こう配は空転による輸送障害を産むことは鉄道輸送ではよく知られた話である。それに対して、信濃川発電所材料運搬線を調べれば調べる程に、現地調査をすればするほどに、材料運搬線の線路の勾配の克服に心を砕いてきただろう設計者の本気を感じていることは、これまでの記事でも示せていると思う。信濃川発電所工事の材料運搬のために軽便線を敷設して、材料運搬を担わせるなら、線形(勾配)による輸送障害はあってはならないのだ。線形に起因する輸送障害が生じるならば、線形を決定した設計者の責任になりかねず、国家事業にそれが許された時代背景だったろうか。かようならば、鉄道としておおよそ常識(25‰以下の勾配)らしい線形になる筈である。しかし、当地の現道の勾配はそれより遥かに急なのである。こんなところを鉄道が通っていたとは考えられない。

とまで考えていたのだが、当時の当地の解像度の良い写真を手に入れて、おおよそそうらしいと言えるようになった。 写真の出展元は「信濃川水力設備要覧 鐡道省東京電気事務所 昭和十五年三月二十日」である。なお、必要に応じて私がトリミングを行っている。

 

材料運搬線は何処ですか?私が推測したのは以下のポンチ絵の通りだ。

 

私は桟橋の上を材料運搬線が通っていたとほぼ確信している。斜面中腹に桟橋を設けても巧みに勾配を克服していたと、私は言いたい。こういう位置関係で材料運搬線が敷設されていたと言うことに迷いはない。現時点で私の主張は、上記で示した位置に材料運搬線があって、浅河原調整池南側の線路は斜面中腹を桟橋で克服していたとする。現時点では、そう言う他ない。


※私は発電所工事関連の当時の証言や資料の提供を募集しています。そうでなくとも地元の方からコメントを頂けると、私は本当に嬉しいです。些細なことでも良いです。親から聞いた程度の話も貴重です。工事当時の話について、私にとっては何でもない話はありません。当時の生活の話でも何でも、私にとっては嬉しい情報です。