◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川発電所材料運搬線(取安川)

2020-02-26 19:19:19 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
今回は千手付近からぐっと飛んで、十日町・小千谷の市境にある取安川を紹介する

ここについては工事誌にもしっかりと書かれている場所で、材料運搬線がこの地に来ていたことが判明していると言える



水路関係の平面図にも材料運搬線が描かれている



取安沢横坑というくらいで、ここも水路隧道掘削のための坑内への資材運搬及びズリ出し現場としての役割があった場所である

取安沢(取安川)横坑は第二隧道に属する。
(千手(小根岸)~小千谷(山本)間の水路隧道は十の隧道に分割して工事が進められていた。千手(小根岸)方から第一隧道である)

千手(小根岸)を基点として取安沢横坑は5k527mの位置、
複線コンクリート巻の横坑で延長342.6mが全線コンクリート巻である

複線と言うのは、構内トロッコ軌道が複線と言うことで、
上で紹介した図にもいわゆるバッテリーロコと言われる蓄電池機関車が2台配置されていたと記されているのが分かる

折角なので、同時期の信濃川における他の工事区の横坑を紹介しよう

工事誌には横坑のコンクリート巻複線断面として図と寸法が記されている



取安川ではないが、他の複線コンクリート巻の横坑が工事誌には紹介されている

トロッコによる運搬に加えて、



おそらく取安川横坑も似たような雰囲気であったと推測される

また、地上から横坑を経由して水路隧道内への電線も通っており、
構内照明やコンプレッサーなど各種機械を動かすための電源供給の役割もあったらしい


そんな取安川の様子を当時の写真に推測で落書きしてみる



横坑の距離について、上の落書きを現在の地図と照らし合わせると平面距離で約350m前後になる

また、横坑は河岸段丘の崖下から掘り進めたものと思われるから、坑口はおおよそそういう位置から推測した

各施設の位置を3D写真で見てみよう(小千谷方から千手方を見ている)



横坑の落書きはもっと手前に来ていたと思われるが、
今更描き直すのも面倒なので落書きした当時のまま載せる

実際には、河岸段丘上で土被りのある集落の真下を横坑が通っていたと考えている

更にストリートビューから付近の様子も紹介しよう



県道49号線の十日町市・小千谷市の市境付近のストリートビューである

現地の竪坑や横坑の辺りを探索したわけではないので確かなことは言えないが、
施設群があったであろう川側はおおよそ水田となっている

今では何事も無かったのように最高級の米を生産する当地であるが、
かつては材料運搬線が走り、作業者が行き交うような国家規模の工事の現場であったのだ

そういう工事が盛んに行われていた時の様子を思い浮かべると、
今の姿は全く当時を想像できない程に長閑であると言え、そのギャップこそが私が信濃川発電所工事に魅かれてしまっている理由なのかもしれない

そして、山側の写真左に県道に沿って材料運搬線を落書きした

冒頭の工事誌の図にも、しっかりと道路の山側で取安沢を渡る軽便と、その鉄橋が描かれているのが分かろう

例によって当時と現代の空中写真を比較する

 

今回はピンポイントで緑丸の部分だ

材料運搬線が取安川を渡っていた地点である

事前の話になるが、顧問と呼ばれる某顧問が材料運搬線の橋脚が残っていると写真を撮ってきてくれたことが、ここを紹介する発端となる

よっぽど、当日の平日朝6時に越後田沢駅に着いて、「顧問、これから宮中から小千谷まで探索するんで、十日町まで出てこない?」と連絡入れようかと思ったが自重した次第である。
(当日、長野では長電の臨時列車が走っていたようである)

それを置いておいても、材料運搬線のものと思われる橋脚が残っているとあれば、調査しに行きたいとなるものである

そうして、私は首都圏から片道4時間かけて下道で妻有に向かったのである



私は軌道跡の上に立っている

右に見える道路が県道49号、目の前が取安川だ



これを橋脚といわずして、何を橋脚と言うか

まぎれもない、材料運搬線の橋脚である

興奮して、私は川に降りる

雪が無いって素晴らしい

遺構を目の前にして興奮した私は、長靴から伝わってくる真冬の沢水の冷たさすら気持ちいい







この今にも倒れてきそうな橋脚がたまらない

よくぞ今まで残っててくれたと言わんばかりの様子である

奥に見えるのが県道である

そして、県道は県道で侮るなかれ



取安橋 昭和六年十二月竣功

って、材料運搬線も県道も時期的にそんなに遠くない構造物なのである

材料運搬線の準備工事は小千谷~千手~宮中間を大正11年末に完了したとされる

関東大震災後の混乱で信濃川に関する工事は中止され各施設は放置されたが、
後に市ノ沢(ほぼ真人水路橋の辺りまで)~千手~宮中間は再整備されて活用されたと工事誌が伝えている
(市ノ沢~山本~小千谷までは荒廃酷く廃止。実際の工事でもこの区間の軌道は使用されていない。なお、この区間は道路整備により積極的に自動車輸送を行った。)

その当時の施設を流用したとしたら、この材料運搬線の橋脚は少なくとも大正時代のものと言える



途端に両者が寄り添う兄弟のように見えてくる



信濃川らしい石積みが綺麗で嬉しい

対岸にも橋台跡が残っている









いかにも鉄橋を固定するためのボルトが残っている

先日の鉢沢川の鉄橋跡にも通じる

とにかく、ここに材料運搬線の線路が通っていたことは、おおよそそうらしいと言えるはずだ

探せば探す程、まだまだ遺構が残っている信濃川発電所工事材料運搬線である



※ここからは完全に余談※

最高級の米と言ったが、妻有付近の米も魚沼産コシヒカリである

信濃川発電所の開発された津南~十日町~小千谷に渡る川西地域も戦前より米どころである

信濃川発電所工事誌には工事に伴う用地確保で支払った土地代や離農補償代まで数字が載っている

詳細な数字は打ち込むのが面倒くさいので載せないが、相場として比較された額はおおよそ東京電燈が飯山鐡道や信濃川発電所に倣った額であったらしい

妻有地域も東京電燈の工事から津南・外丸あたりの相場を聞いて勉強していたので、
鉄道省に安く買い叩かれてはかなわんという動きがあったというのだ

それに重ねて、取水による信濃川の水位低下及び水路隧道掘削による農地への水源枯渇への補償も行われている

また、この時に信濃川・千曲川水系の漁業への補償も行われている

農地に対する水源枯渇への補償は今でも行われており、信濃川発電所の水路隧道から分岐した水路が当地の農業用水として使われている

逆に言うと、信濃川発電所の取水の一切を止めると、川西地域の水田も水を得られなくなる地域が出て来るということになるというのは余談の余談だ

当時の動きとしては、地元住民が鉄道省側の初代所長に水源確保を要求し、水路の分岐をもって灌漑用水路を整備するとしている

また、当時は妻有の豊富な沢水や地下水を掛け流して稲作をしていたため、地元は新鮮な水を常に掛け流したいと要求した

これに対して、信濃川事務所の初代所長は「丹那トンネルの現場でもあった話ですが、冷たい地下水や沢水を水田に掛け流すより、限られた水を融通し合うことで温まった水を使う方が稲の収穫量が上がったという報告がありますので、本計画は十分だと考えています」(意訳)と返したそうだ

その後の話は分からないが、それで地元も折れて今に至るのだろう

そして、今では国内有数の米の産地の一つとして名を連ねている

時期になれば川西地域でも直売所で川西産の米が買える

私は1人で、この米は信濃川発電所の水路隧道から供給された水で育った米なのかもしれないと思いながら頬張ったり、当地の日本酒を飲んで楽しんでるんだ。

※この地元への補償や工事着手に至る話は、気が向いたら当時の十日町新聞の記事を引用して改めて紹介したいと思う


信濃川発電所材料運搬線(高城澤)

2020-02-16 23:00:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
 

今回、探索を紹介するのはこの地点である

材料運搬線が三方向に分岐するデルタ線として、USA-R1907-28という空中写真が記録している

整理番号 USA
コース番号 R1907
写真番号 28
撮影年月日 1948/10/12(昭23)
撮影地域 松之山温泉
撮影高度(m) 2621
撮影縮尺 16999
地上画素寸法(cm)
カメラ名称 K-17
焦点距離(mm) 154.200
カラー種別 モノクロ
写真種別 アナログ
撮影計画機関 米軍
市区町村名 十日町市

この地点で、材料運搬線は十日町駅から信濃川を渡り千手発電所(下平車庫)を経て、
このデルタ線で分岐し、それぞれ吉田・浅河原方面と千手・上野~市ノ沢に向かう軌道が敷設されたと考えられる

なかなか面白い構造で、どういう運転扱いでこのデルタ線を運行していたのか気になる

このデルタ線が無ければ、材料運搬線は十日町方から一旦は吉田まで行って、スイッチバックする形で千手・上野などへ至らないとならなくなり、
輸送上の効率は悪くなるというのが素人目に見ても感じる部分である

しかし、このデルタ線については、各種の資料では記されていないことをまず紹介しよう



USA-R1907-28 1948/10/12(昭23) 米軍




「信濃川発電水路図」  信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月  




「信濃川発電所第3期工事用材料運搬線略図」  軽便機関車誌 国鉄狭軌軽便線1 臼井茂信 草原社 2019年12月19日




「信濃川水力発電所材料運搬線路略図」 中川浩一 作図  鉄道ピクトリアル 1968年5月号 信濃川水力発電所工事 材料運搬線とその車両 瀬古龍雄 昭和43年5月1日




「第三期工事の材料運搬線」  信濃川水力発電所の材料運搬用軽便線 上村政基 1999年


いずれの図にも描かれていない部分は、十日町方から千手・上野方へ直接分岐する線路と、
それによって形成されるデルタ線だ

空中写真にはデルタ線の様相が見て取れるにも関わらずだ

さらに、ここで疑問を持ったのは信濃川水力発電所第三期工事における材料運搬線の役割が、
千手発電所から小千谷発電所に至るまでの水路隧道掘削のための資材運搬であるからだ

つまり、材料運搬線としてのメイン経路としては十日町方(下平)から千手・上野方へ向かうはずなのに、それがいずれの図にも描かれていない

第一期・二期工事の頃なら十日町方(下平)から上流の吉田・浅河原に向かっていくのも納得がいく

更に、第一期・二期工事の頃なら千手まではちょこちょこ資材を運ぶ程度のものだったろうから、
吉田でスイッチバックして千手まで運んでいたとしても納得がいく

USA-R1907-28という空中写真にはっきりと見えるデルタ線にもあるように、
どうしても撮影当時含めて材料運搬線の輸送経路として十日町方(下平)から千手・上野方へ直接抜ける経路で運転する方が合理的だと思わざるを得ない

USA-R1907-28 1948/10/12(昭23) という年代は、工期で言えば二期工事と三期工事の狭間である

年代を整理すると、国鉄(JR)側の資料では
一期工事 ~1939年11月
二期工事 1940年4月~1954年3月  浅河原調整池完成 水路隧道・圧力隧道の2条化・千手発電所増強
三期工事 1943年11月~1954年11月 山本調整池 千手・小千谷間水路隧道1条 小千谷発電所 
四期工事 1957年6月~
という時期である。

付記であるが、戦中の着工とされている第三期工事について、
実際には戦況激化により着工するものの工事の進捗は芳しく無く、
着工したもののすぐに中断しているようで、本格的な工事は戦後であるようだ
(特に三期工事は戦前・戦中計画から、戦後に材料供給状況の好転で計画変更がされているようだ)
(この混乱は工事材料運搬にも影響を与えた)



「工事用材料運搬設備 概要」 信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月



また、信濃川水力発電工事誌は1952年03月発行で、第三期工事の内容がメインとなっている

以上を踏まえた上で、別な図を示そう



「資材送路平面図」  信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月

はっきりと軽便線として、デルタ線が描かれている

おなじ信濃川水力発電工事誌に掲載されている平面図であるが、
「信濃川発電水路図」と「資材送路平面図」で描き込みが異なる

予め言っておくが、「信濃川発電水路図」が間違いだと言うわけではない

「信濃川発電水路図」は材料運搬線として、
十日町駅から側線下平倉庫線を経て千手発電所構内まで続く線路(1,067mm)を描きつつ、
吉田・浅河原へ向かう軽便(762mm)も併記している

一方、「資材送路平面図」は十日町駅から千手発電所構内まで続く側線下平倉庫線(1,067mm)を書いていないのに、
発電所手前で分岐している取水口材料運搬小根岸線(762mm)や、今回の高城澤のデルタ線(762mm)などを細かく書いている

「信濃川発電水路図」は全体概要のクセがあるが、「資材送路平面図」は三期工事で実際に使用した資材送路に特化した図に見える
(紹介はしないが、「資材送路平面図」は軽便のみを描いているわけではなく、三期工事で作られた小千谷駅~山本間の専用線(1,067mm)についてはしっかり描いてある)

各種図の描き込み具合の思想までは計り知れないが、
その図で示したい部分を強調すべく細部の書き込みをしたんだろう、知らんけど

ここからして、臼井、中川・瀬古、上村らの雑誌のいずれの図も、
「信濃川発電水路図」を参照して描かれたものなんだろうなっていうことを推測している

いずれの雑誌も参考文献として「信濃川水力発電工事誌 日本国有鉄道信濃川工事々務所 1952年03月」は挙げている

ここまで書いておいて、デルタ線の十日町方(下平)から千手・上野方へ直接向かう軌道が何かの資料で否定されていたら恥ずかしいことこの上ないのだが

むしろ、これを否定する資料や証言があるなら教えて欲しい



前置きが長くなったが、改めてデルタ線である

 

まずは緑丸の地点である

まず、緑丸の上の林の上の辺り

千手方から吉田方へ向かって見ている

手前からストリートビューで紹介する



振り返ると変電所が見える。農地改良で痕跡もない。



更に吉田・浅河原方へ進むと



そして、この部分の特徴的な軌道の曲線を色濃く残した農道が始まる



良い感じに林に向けてカーブしている

軌道上だろう地点から見ているので、手前で農道が左に急角度で逸れている辺りからも軌道は真っ直ぐこっちに来ていたはずだ



ゆるーくカーブしながら続く農道が、空中写真と一致していて、いかにも廃線跡といった感じだ



そして、現道にぶつかる



軌道はこのまま真っ直ぐ進んで、吉田・浅河原方へ向かっていた

農地改良で、ここから先の痕跡は見つけられなかった

振り返って、千手・上野方を見る





良い感じの曲線!

タイムスリップして、ここで信濃川発電所工事材料運搬線を撮影したかったと思えるような良いカーブ

林を抜けてポ~ッ!とか鳴らしながら、ケ型の蒸気機関車が数両の貨車を引いてやってくる姿が見えるようだ

おおよそ、緑丸の部分はこんな感じである




後日、青丸の部分を再調査した



さらっと左に書いた、十日町方への線である

舗装されていない農道を歩いて、なにか残っていないか見に行く

軌道は林の中をカーブしながら通っていたはず・・・



「ハッハッハーッ!あるじゃねぇか!」と、なんとかの中心で愛を叫びたくなった




ずるい、この切り取りはずるい 位置もカーブの感じの空中写真のまんますぎる

手前の用水路部分でぷっつり切れている

用水路から手前は後の農地改良で埋められた部分で、
この写真を撮った農道からすると2mくらい低い位置を軌道は通っていたことになる

軌道跡らしい場所へ降りる





いかにもカーブの先からガタゴトと軽便が現れそうな光景である

新製から信濃川に配置するために発注された軽便機関車が、
発電所工事のための資材を積んだ貨車を数両引いてここを走っていたのかもしれない

きっと、下平(千手発電所)からここまでずっと上り勾配で河岸段丘の上に至るわけで、
列車の運転には大変な場所だったろうなと思う


例によって切り取り部分の軌道跡は湿地帯化する 足元はグチョグチョである

もはや軌道跡が池になっていないだけマシだと思う

それに比べると、かなり状態がいい切り取り部分である

両脇に掘られた排水路らしき溝には雪が残っている

先日紹介した姿~鉢沢川までの林の中の軌道跡もそうだが、
信濃川発電所材料運搬線の軌道跡はこういう掘割部分は排水路っぽい溝を両脇に感じる

もっとも、現役当時に排水路があったのか確認できるほどの資料を私は持っていない

ただ、地形が変わっていないのなら、水は溜まりやすい地形だったろうし、一定の傾向はありそうだ


わずか50m程度だろうか、カーブしていく切り取り部分を抜けると、林から出る





おおよそ軌道はこういう感じに通っていたはずだ

左奥の建物のあたりで、吉田・浅河原方へ向かう軌道と分岐していたようである

その建物の付近から、上記地点を見たストリートビューを紹介しよう



おおよそ、こういう感じで軌道が通っていたはずだ



以上、全て推測である

デルタ線として軌道が存在していたのかということは、多くの資料には描かれていない

一方で、現地にはそれらしい痕跡が残っている

事実は分からないが、それを肯定する資料も否定する資料も私は見ていない


ただ、いかにもかつて軽便鉄道が走ってそうだなという光景が残っていると思っただけである

信濃川発電所材料運搬線(鉢沢川橋梁(仮))

2020-02-07 15:36:58 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
 

今回はここだ

信濃川発電所材料運搬線(宮中~吉田間)の最大の鉄道構造物だと思われる、鉢沢川橋梁である

先日、既にこの部分は紹介しているのだが、冬期に入り改めて付近の探索に妻有を訪れた

というのも、以前に紹介した鉢沢川橋梁に関する記事について、恥ずかしながら大きく修正すべきことがあると判断したからだ



これだけのトラス橋が河岸段丘の合間の深い谷を越えて架けられていた

たかだか工事専用線である。本当に、たかだか工事材料運搬用の軽便鉄道だ

この設備自体は、旅客運送をするなどして運賃を得るなどの僅かな利益すら一切生み出さない軌道だ

この軌道の至上命題は「信濃川発電所工事の材料運搬」である

そんな軌道に、どれだけの鉄橋が架設されていたのか、そしてその様子が改めて推測される遺構が現存していた

それを紹介していきたいと思う



話は前回の場所から始まる



軌道跡の盛土は現道に吸収されるように消えて行った

消えた軌道跡は追い切れないが、斜面を歩いて行くと現道に飲み込まれた高さから幾分か高度を上げた場所が平場となって表れた

どうにかそれっぽい平場に着いて、これまで歩いてきた宮中方を見る



右上が現道の駐車帯である

現道まで高さは3m~5m程度ある

更に少しだけ信濃川寄りに軌道は通されていたと言うことが言えそうだ

振り向いて千手方である



鉢沢川が形成する深い谷が行く手を阻むように横たわる

ここも谷底は治水工事で多少は地形が変化していそうだ

軌道が途切れた位置から下へ降りて行く

盛土が無くなっている地点から橋梁だとすると、
遺構が残っているとすればこの下あたりにありそうだ

材料運搬線の盛土と思しき斜面を降りて行く



一つ前の写真はこの盛土の上から千手方を撮ったものである



近づく





コンクリートの塊だ!

軌道跡と思しき盛土の末端に橋台らしきコンクリートが残っている!

川に向かってL字型のようで、ここにトラス橋部分までの接続するガーター橋が載っていたのか?

苔生した姿に年月を感じる

付近の捜索を続ける

橋脚の残骸のようなものが残ってやしないかと思って、谷底に向かう



さっきの橋台と思しきコンクリートを正面に(宮中方を見ている)

この写真を撮った時、あれ?っと思った

冬枯れの枝の中に盛り上がったものを見たからだ



またしてもコンクリートの塊があったぞ!

そして、こんどはデカい!



盛土とさっきの橋台と、更にこのコンクリ塊の位置関係はこんな感じで、真下に横たわっている

枕木方向の幅は約3m、線路方向の幅は0.6m、地上からの高さ0.3m程度か

測ってないから分からないが、枕木方向(線路と直角方向)に幅がある構造物だ







少し苔を剥がせてもらったが、しっかりとしたコンクリートが残っていた

更に、このコンクリートの上にはボルトが残っている









落ち葉が邪魔で分かりにくい

真上から見ると [ : :: :: : ] このような状態で計12本のボルトが出ている(記憶違いかもしれないので要確認)

おそらく、このコンクリートこそがトラス橋を支えていたもので、かつこのボルトでコンクリートとトラス部が締結されていたと考えられる

その後も付近を捜索するも、鉢沢川の宮中方にはこれ以上の遺構は見つけられなかった

改めて現道の橋の上から観察する









橋梁全体としてはこのような全容であったと思われる

そして、前回紹介した千手方の橋台へ向かう







今回、宮中方の遺構を見て分かったのだが、この橋台はトラスと接続するガーター橋の橋台だろう

こっちはL字型じゃないのは、このままこの上にガーター橋が載っていたのかと思う

と言うことは、トラス橋が載っていたコンクリートが他にあったはずである



しかし、それと思しき場所にそれらしきものは見当たらなかった





更に谷底を調べるも、それらしきものは見付けることが出来なかった

なお、落書き部分は材料運搬線時代には切り取られていた部分である

それでも、これで材料運搬線の鉢沢川橋梁の全容が掴めてきた気がする

発端は一枚の写真資料である



この一枚から、まずはここにトラス橋が架かっていたことが分かった

なにしろ、文書的な記録が見つかっていないし、国鉄の信濃川発電所工事史もこの時代の話は匙を投げているくらいだ

そこから推測して、現地を見て、それっぽい遺構を見付けて、何となくだがこの橋梁の全容が見えてきた気がする


軌道は橋梁で鉢沢川を越え、千手方の河岸段丘を大きく削った切取を経て河岸段丘上へ至る





土捨て場として当時の痕跡はほぼ残っていないが、空中写真からおおよそこれくらいの切取(もっと深そう)で河岸段丘上へアプローチしていただろう


以上、鉢沢川を巡る信濃川発電所工事材料運搬のお話でした。

信濃川発電所材料運搬線(姿ー鉢沢川付近)

2020-02-03 21:31:55 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
 

信濃川の川の流れがここまで変わるほどの歴史の流れの中で、未だ残る材料運搬線の痕跡を追う

信濃川発電所工事が決まり、材料運搬線などの準備工事から数えると100年も経つ

現在紹介している区間が実際に工事で使用されたと推測されるのは戦前から戦後にかけての一期工事・二期工事くらいの段階であるから、
材料運搬線としての運転時期~廃止までは準備工事時期と比べると幾分は減じるものの、その発端は大正期であることは記しておきたい

東京電燈(現・東電HD)信濃川発電所と鉄道省(現・JR東日本)信濃川発電所の両発電所の取水により信濃川の川の流れが大きく変わっていくのも事実だ

それくらいの時間の流れを感じつつ、私は現地を歩くのだった


さて、今回は〇の落書きも無い

珍しく、ほぼ全線で軌道跡を紹介できる程度の遺構が残っている

ドリームパ〇ルの工場の裏手から、切取が続く

ドリームパ〇ルの工場敷地は痕跡を見つけるどころかって感じだ

実際、この切取から工場敷地までも2m程度は段差があるくらいの、地形ごと吹き飛んでいる部分である

工場裏手から切取を歩き始める











切取&盛土の連続

写真では分かりにくいが、きっちりと路盤の両脇には排水路と言えるような溝まで感じる程度の、
軌道跡らしい雰囲気のまま山の中に残っている

切取なんか山側斜面が相当高いほどで、これほどの工事を材料運搬線のためにやっていた信濃川事務所の本気を感じる

河岸段丘の際をいく軌道跡は、ちょっとすぐそこに信濃川への崖っぷちを感じるような場所である

これでもできるだけ通しやすい場所を通した結果だろう



途中、農地改良で水田となっている場所は痕跡も残ってないが、すぐに軌道跡は復活する



林への入り口

ここには左下から右へと沢が通っている

農地の縁には水路なり小川なり沢がある

急峻な地形を形成する河岸段丘を行く信濃川発電所材料運搬線にはよくあるパターンである

とはいえ、私はそれを当時の痕跡だと断言できる知識も無いので紹介とする

ここの場所は暗渠を造って材料運搬線は越えていたと推測される

沢に降りる









当時のものかどうかは分からない

ただ、これまでの石積みの綺麗な遺構をみてると、
どうしても信濃川発電所由来なんじゃないかと思える意匠だ

そんな記録は私も見ていない

こういう暗渠を造ったという記録を見ていない

しかし、それっぽいという感覚があるだけだ

















更に千手方に進めば、切取&盛土の連続

特に残存する盛土の綺麗さは随一で、場所によっては石積みによる土留めすら残る次第である

豪雪地域にある根曲がりの樹木が目立つ中、それだけの積雪に数十年も耐えてきた石積みが残っているのが嬉しい

しかし、材料運搬線の軌道跡は、現道に飲み込まれる

無残過ぎる終わりである

ここで、軌道跡の痕跡は一切が飲み込まれる





現道に上がって撮った、軌道跡の終わりだ

振り返れば、ここまではっきりとした軌道跡が残っている



俯瞰しても石積みの跡が見て取れる












最後は現道から車を止めた場所まで帰る途中に撮った写真だ

現道からもこれだけ痕跡と言える姿を残している

ここを、小さな機関車に引かれた列車が行き交っていたのだ

信濃川の軽便用機関車”ケ” なのかは知らんが

ただ、ここに列車が通っていただろう、それだけで十分


信濃川発電所材料運搬線(姿付近)

2020-02-02 16:27:06 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
 

まずは緑丸の辺りの話だ

材料運搬線は姿の集落を抜けると、信濃川のすぐそばまで来ていたと思われる

姿大橋の袂である





今立っている信濃川の堤防の下あたりを、川に沿って走っていただろうけれども、分からない

奥に見える農道を進んで行く



畑があって、竹藪である

それらしい地形は見えない

竹藪の中に突入



ちょっとそれっぽい地形が出てきた

しかし、すぐに採石所に飲み込まれ、痕跡らしい痕跡はこれくらいしか見つからなかった



 

つづいて青丸の辺りだ

ここは県道のせいで大きく地形が変わっている



県道から宮中方を見る

軌道跡は採石場からまっすぐこの辺りに通っていたはずなのだが、よく分からない



振り返ってみると、ここも地形が変わって良そうだが、川と言うか沢が流れている地形

材料運搬線は旧道の近くを走っていたはずだからと、旧道を歩き始める

その時、何か対岸の斜面にある



何か対岸にあるぞ!石積みの構造物だ!



県道から沢を迂回する。県道との位置関係はこういう感じだ。

地形的には軌道の様子が分かるものではなくなってしまっているが、
あの石積みの構造物は橋台に違いない



斜面を少し降りてご対面







沢まで降りると、橋台の下の部分だけコンクリートで護岸されていた



橋台の上に立って、宮中方を見る



笹薮の中にも入って行ってみたもの、それらしいものは発見できず

しかし、橋台のようなものを発見できただけでも良かった

材料運搬線はここを通っていたのだろう