◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

【追記】宮中取水堰堤工事(小原詰所)

2021-09-15 21:16:56 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
本文は 宮中取水堰堤工事(小原インクライン) の追記となる。

そもそも、小原詰所は何処にあったのか。以下の記述を参考にしていく。

十日町新聞 昭和七年三月二十日
堰堤では日本一 宮中の堰堤に着工 栗原組も気込む
先般秋田の栗原組に落札した貝野村宮中地先堰堤の起工式は去る十六日栗原組によって現場で行はれいよいよ工事に着手、現場監督の鐵道省小田技師は田沢詰所詰となった。同工事は大規模の点において全国にその例がないので注目されてゐるが請負額六十一万五千八百圓で竣工期限は昭和八年十二月十五日である


上記、十日町新聞昭和七年三月二十日付の記事に出て来る鐵道省小田技師こそ宮中取水堰堤の担当技師である。
同氏は昭和7年2月から昭和11年8月まで信濃川電氣事務所小原在勤を命ぜられ、取水堰堤、沈砂池、水路隧道等の構造物築造の担当技師兼詰所主任である。昭和7年2月と言えば右岸部堰堤が栗原組に落札された頃であり、昭和11年9月には栗原組により宮中取水堰堤工事殉職者の慰霊碑が建立される。つまり、取水堰堤に関する土木工事について着工から完成にわたって小原詰所在勤として付近の工事を監督した人物だ。

そして、日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P84の1 に小田技師の寄稿した文章が掲載されている。そこでの小原詰所の記述は以下の通りである。



小原詰所は現場近くの田圃の中にあって行き止まりになっているから、ここに用のある人の外には誰も通らない。若い職員が多いから青春の気自ら都会にあこがれ、文化の匂を嗅ぎたがるものがあるが、文明の音としては轟々というミキサーとクラッシャーの音響以外に何も無い。従ってレジャーを楽しむためスポーツや、他の詰所との交際が盛んである。

まず、十日町新聞の田沢詰所とは小原詰所のことだろう。そして、その小原詰所は小田技師いわく「現場近くの田圃の中の行き止まり」にあるという。小原は越後田沢駅の北にあたる。そして、行き止まりとあるは、段丘面の端、段丘崖上の際にあったと考えられる。
更に、鐵道省東京電氣事務所(1940.3).信濃川水力設備要覧には以下の図が掲載されている。


鐵道省東京電氣事務所(1940.3).信濃川水力設備要覧 信濃川水力設備図

田澤専用線の終点、段丘面のきわにごちゃごちゃっと建物が描かれている。これこそが小原詰所だろう。段丘崖の真上に位置している。まさにインクラインの上の建物群が小原詰所と言えよう。
当然、小原詰所と言っても請負業者の栗原組の建物もあったろうから、具体的にどの建物が鉄道省の小原詰所の建物かも分からない。それは大きな課題ではなく、確かにあの辺りが小原詰所であったと言えれば私は満足だ。


なお、信濃川でのスポーツは野球、テニス、スキーなど多彩である。特に野球は地域対抗で、信濃川は詰所ごとにエントリーして地元チームと戦っている。時に信電チームは地域リーグで優勝したりしている。小原詰所チームがあったかは分からないが、貝野工事区チームや姿工事区チームも組まれるほどに野球は盛んだった。それは当時の十日町新聞でも戦績が記事になっており、この辺の信濃川掛の余暇の楽しみはおいおい書いていきたい。


そして、この信濃川水力設備要覧の信濃川水力設備図は私個人的にはツッコミどころがある。それは、本ブログでも度々出てきた十日町~千手発電所間の軽便線が描かれておらず、田澤~小原の軽便線が描かれている点である。本資料の刊行は1940年、つまり昭和15年の資料にも関わらず、十日町から分岐して千手発電所に至る専用線が描かれていない一方で、既に竣功して数年が経過した宮中ダムへ向かう田澤の専用線が描かれているのだ。昭和14年に千手発電所は発電を開始していたし、昭和15年は二期工事が着工された頃である。宮中ダムに残工事があったとしても田澤専用線はほぼ活用されていないどころか、下手したら線路すら剥がされて水田に戻っていてもおかしくない時期だ。あれだけ信濃川電氣事務所が各方面に示した信濃川を渡る十日町~千手発電所間の軽便線が描かれていないのはツッコミどころがある。描かれていない理由は分からない。そもそも計画段階の設備が描かれている一種のポンチ絵だろうというのは、二期工事着工前の資料なのに二期水路隧道が描かれている点からも判断できる。あくまでポンチ絵。しかし、田澤専用線の終点、段丘面のきわにごちゃごちゃっと建物が描かれている。これこそが小原詰所だろう。