『土木建築雑誌』13(1),シビル社,1934-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1592195
また新たに国立国会図書館デジタルコレクションにて資料を見付けたので紹介したい。今回は浅河原調整池附近の材料運搬線についてだ。結論から言うと、鉄道省信濃川發電所工事材料運搬線は浅河原調整池南側の崖に沿って鐙坂へと越えていた。それを示す資料を紹介する。これまでの私の書いた記事は以下の通りである。
信濃川発電所材料運搬線 一期・二期工事時代まとめ
信濃川発電所材料運搬線(浅河原調整池南側)
鐙坂へ続く線路か?
浅河原調整池の工事は連絡水槽や土堰堤の資料は豊富ながら材料運搬線に関する裏付けに乏しかった。これまでも戦前から戦中に行われた工事中の写真や戦後の空中写真を参考にしつつ現地を歩いて調べて来た。そのため、状況からしてこうだろうという推測から記事を書かざるを得なかった。しかし、今回、材料運搬線を含めた全体図を国立国会図書館デジタルコレクションで見付けたので紹介したい。
今回、特に注目しているのは浅河原調整池の南側部分。浅河原川を越えた辺りから鐙坂に至るまでの区間だ。浅河原川の北側について、材料運搬線(軽便本線)は吉田のクロスカントリー場から段丘崖に沿って浅河原川へ向けて高度を下げていく線形をしていた。当時の路盤と思われる平場が今も現地に残っている。一方、私が分からなかったのは、浅河原川を越えてから鐙坂に至る区間だ。今回、この資料ではそれらを含めて、浅河原調整池付近全体の施設が描かれている。材料運搬線は浅河原川を越える辺りは盛土として描かれており、浅河原調整池の上流で浅河原川を越えていたと示されている。そのまま材料運搬線は鐙坂に向けて段丘崖を地形に沿って登っていると示されている。鐙坂に至っては現在の吉田公民館の裏を掘割として通っている様子が描かれている。図に示されている鐙坂の道路と現代のものとを照らし合わせると、吉田公民館裏の溜池は、まさに材料運搬線の掘割を堰き止めたものに水が溜まったものであり、山之上に向かう道路を挟んで南側に残る緩やかなカーブを描いた帯状の湿地帯も材料運搬線由来の掘割が低地として残った遺構であると考えている。
小千谷市の「おぢゃーる」で放映されている建設当時の映像に、材料運搬線が浅河原川を越える辺りのを写したものがある。立派な盛土だ。
こちらも「おぢゃーる」の映像からの引用になる。浅河原川から右岸部を見た様子だ。第三隧道の開口部が見え、これから連絡水槽が建設される頃の映像だ。この映像でも、材料運搬線らしき平場が崖の中腹に切ってあるのが見られる。写真左上の方向が鐙坂だ。
『土木工学』6(9),工業雑誌社,1937-09. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用
キャプションには「鐵道省信濃川發電工事 鐙坂臺軽便線附近より見たる連絡水槽工事」とある。つまり、この写真から連絡水槽を見下ろす位置に軽便線こと材料運搬線が敷かれていたと推測できる。
連絡水槽建設開始後の浅河原川の右岸部を写した写真だ。斜面中腹に平場があることが分かる。
現在の空中写真と照らし合わせても、鐙坂に至る材料運搬線の線形が見えてくる。ほぼ、現在の県道49号線小千谷十日町津南線に沿っている。また、段丘面上にある鐙坂に入って行く区間では掘割で高度差を稼いでいた様子が推測されよう。
更に、図の左中央にあたる浅河原調整池上流部にて浅河原川の南側すぐに分岐して調整池へ入って行く支線も描かれている。これこそが以下の十日町新聞の記事の浅河原線にあたる300mの支線であろう。
十日町新聞 昭和七年八月二十五日
信濃川発電工事現況に就いて 鐡道省信濃川電氣事務所長 堀越清六
(中略)
材料運搬線設備工事は昭和六年八月、十日町千手間材料運搬線工事に着手以来其の他の線路も予定通り進行し既に完成使用中のものもある。今此工事現状を略記すれば
小原線 飯山鐡道越後田澤驛から小原に至る延長一三二〇米の線路で昭和六年十月起工既に竣工して材料の輸送を開始している
堀之内線 軽便本線堀之内から分岐する延長五〇〇米の運搬線で主として第一隧道上部の材料を運搬する。昭和七年四月に起工既に完成使用中のものである
浅河原線 軽便本線浅河原から分岐する延長三〇〇米の運搬線で第三隧道調整池及圧力隧道等の材料を運搬するのが目的で目下工事中である
2023年に小千谷発電所が公開された際のパネル展示に以下の写真が掲載されていた。後に浅河原調整池として連絡水槽などが設けられる場所である。
これまで、私は当時の写真の中心から右下にかけて写っている軌道が浅河原線だと推測していた。盛土や橋を架けるなど、それなりにちゃんとした軌道だと考えたからだ。しかし、今はそうではないと考えている。
この場所は後に連絡水槽が建設される位置であり、図に描かれている浅河原線とは全く別な軌道であると考えている。おそらく、現場での資材輸送用の軌道に過ぎない。
実は当時の図も鉄道と特殊鉄道で地図記号を描き分けている。材料運搬線は鉄道、それ以外の現場での資材輸送用の軌道は特殊鉄道の地図記号が使われている。私は地図の成り立ちに詳しくないため、当時の地図記号の用法は分からない。一方で、この図を描いたであろう鐵道省としては描き分ける理由があったと考えている。そのため、地図記号の違いが材料運搬線と現場の軌道との違いだと推測している。
図には昭和6年の写真に写っている軌道らしきものは描かれていない。図に描かれている軌道はいずれも写真に写っている軌道と位置が合わない。昭和6年には無かった連絡水槽が出来ており、写真に写っている軌道の盛土などは連絡水槽建設時に全て削られただろう。現場の軌道は工事の進捗によって様相を変化させていくものなので、特に不思議はない。むしろ、図には浅河原線から連絡水槽直下までの軌道が描かれており、やはり工事に即した軌道が整備されたと考える方が自然であると考えている。なお、軌道は材料運搬線と繋がっていたようで、工事中の写真には現場で働く材料運搬線用の機関車の姿などが見られる。
この2枚の写真はほぼ同じ場所を写したものだ。右上のこんもりした丘を目印にすると、地形がこんなにも変わるのかと驚く。それほどの工事だった。今回、改めて記事を書いていても、工事開始前と工事中、工事完了後の地形や道が余りに違うので、それぞれの時代での判断を行う必要があった点に苦労したことを申し添えておく。