性懲りもなく、私は昭和23年の航空写真を眺めている
そもそも、廃線跡探索趣味者の基本中の基本としての線路跡の探索をやっていない
一部が道路に転用されているのはGoogleマップで見ても明らかなのだけど、だからこそやる気が出ない
道路に転用されている時点で軽便の痕跡なんて残っちゃいないと、物足りなさを感じながら、そんな時代のせいだよと先回りして諦めていた
割とGoogleストリートビューでも道路転用の軽便跡はトレースできる
トレースできない部分は後の農地改良や住宅が建ってしまっているために痕跡の一切が消失してしまっている
航空写真とストリートビューでお気楽現地調査を行っていたところ、一部追えない区間で気になる部分に気が付く
軽便が川を渡っていた部分だ
ストリートビューでは軽便が川を渡っていただろう部分までは見られない
黄色い丸の部分が目に留まった
こうして並べてみると、結構な割合で軽便跡が生活道路や農道として転用されているのが分かるんだけど、
道路部分はほとんどストリートビューで見られるので、興味がある人だけで良いと思う(よくある十日町近辺の生活道路の景色)
さて、軽便は恐らく貝喰川を渡っていた
渡っていたということは橋があったはずで、何らかの痕跡があるんじゃないか?と思いたくなる
これまで、おそらく軽便が橋だったろう場所は見てきたつもりだが、痕跡を見つけるには至っていない
どうだろう、今回も空振りになるかもなぁなんて思いながら、またしても次の休日には夜通し走って下道で十日町入りするのだった
いや、寒くなってきたので松之山温泉でも入りに行くついでのつもりで、あくまで温泉がメイン!
で、貝喰川のほとりの田んぼの中に着いた
自分が立っている場所がほぼ軽便のあった場所のはずで、このまま軽便は川を渡っていたはずである
川べりに立つも、やっぱり橋台らしきものは一切ない
軽便があったろう場所に立っている
川も道路沿いはコンクリートで護岸されていたが、この辺りは割と自然なままである
橋台でもあるかと思ったけど、ちょうどその場所だけ緩やかになっていて川に降りられるような斜面になっている程度で、特にそれらしい痕跡は無し
川の底を見ても、それらしいものはあるはずもなく、なんとなく諦めきれずに上流と下流の上下100メートルくらいは行ったり来たりしてみるも何も無さそう
そうして下流側を見に行ってから車に戻ろうとしたときだった
なんか川底にコンクリートの塊があるぞ? 行く時には気が付かなかった
急ぎさっきの橋台があったろう斜面から川に降りる
コンクリートで、上に丸い穴が開いている・・・?
見覚えがある形だ、主に森林鉄道とかでこの穴に丸太の橋脚を刺していたそれと似ている
橋脚=川の流れと並行のイメージだが、この角度こそ航空写真で見られる軽便の方角と一致する
流石にここから対岸には渡れないので、一旦川をあがり、対岸を目指す
さっさと迂回して、対岸の河原に降り立つ
対岸からさっきのコンクリートの塊を見る
そして振り向いて、千手発電所の方向を見たのが次の写真になる
写真では分かりにくいが、コンクリートの構造物が草むらに埋まっていた
マジか、本当に一直線上にコンクリートの塊が並んでいるのだ
興奮のあまり、写真を撮らずじまいだったのが残念だが、長靴でコンクリートの上からグリグリと押してやると丸い穴が開いていた
落書きするとこのような感じに 一番奥の台形は橋台と思われる部分である
更に橋台と思われる部分に近づく
この川は割と自然に削られた崖になっているのだが、ここだけおあつらえ向きに盛り上がっている
水路は後年のものかもしれないが、橋台の辺りはいかにも信濃川っぽい玉石とコンクリートの構造物が覗いている
なお、コンクリートは下まで続いている
そういえば、信濃川はレンガを使っている構造物を見ない
信濃川発電所の工事では各現場にセメント倉庫を建て、索道で信濃川から砂利を運び、各地にコンクリート工場を造っていた
これも現地の信濃川から豊富にコンクリートの骨材が採取できたからだろうか、レンガ造りのイメージが薄い信濃川発電所関連施設群である
橋台跡らしき盛り上がりを登って
恐らく橋と接続していた場所から玉石が無くなり、垂直にコンクリートが打たれている
更に橋台上からコンクリートの塊を見ると、こういう並びになる
これはまさに軽便の橋の跡だと言えそうだ
こうして、思いがけず信濃川発電所材料運搬線跡の構造物を発見したと言えよう
更に、現地で聞き込みを行い、やはりここに軽便が通っていたという証言を得た
「ここを通ってサージタンクと千手小学校の向こうに軽便が通っていた。当時は汽車が来ると聞いたのでみんなで見に行ったけど、汽笛が大きな音でみんなで耳を塞いだ。煙が出てて、発電所に荷物を運ぶための軽便だと記憶している。人が乗るような列車ではない。私は千手小学校の卒業だけど、軽便は千手小学校のプールの側を通って、更に向こうに行っていた。小学生の行動範囲なので何処まで行っていたかは知らないけど、高原田の向こうには行っていたはずで、小嶋屋の蕎麦の製麺所の辺りを通っていた。今では発電所の人はここには住んでないのだろうけど、軽便が走っていた頃は発電所の人でいっぱいだった。私が通っていた頃の千手小学校も1クラス40人近くて、それが松・竹・梅の3クラス、全校で700人は生徒がいた。あと、そこの空き地になってる場所に発電所の事務所があった。発電所が完成してからはしばらく診療所として残っていたけど、今は空き地のまま。この土地も千手の旦那様(土地の庄屋とか大地主のことと推測される)が工事のために貸したとか聞いている。あの頃に比べたら、随分ここも静かになった。」
先述の通り、軽便をトレースするように道路が残っている
高原田の小嶋屋の辺りを通っていたというのは、画像の左上である
田んぼの方に小嶋屋の店舗があるが、軽便が道路を渡っていた辺りに小嶋屋製麺所がある
正面の黄色いシャッターのある建物がそれだ
更に、事務所の位置まで判明した
今では空き地になっているが、まさにその場所に建物があったことがわかる
当地のストリートビューと、当時撮影された信濃川発電所工事事務所庁舎の画像とを同じ角度で見ると以下のようになる
確かにそれらしい雰囲気がある
こうして少しずつながら、軽便の存在を確固たるものにしていくだけである