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いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川発電所三期工事(材料運搬線:小千谷駅~小千谷発電所間)

2021-08-15 08:15:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線




出展元,USA-R446-48 撮影年月日 1947/11/01(昭22),地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

米軍撮影の戦後の小千谷付近の空中写真を冒頭に示す。今回は、この写真に写っている小千谷駅~小地谷発電所間の材料運搬線について改めて机上調査を行った。なお、現地調査については「信濃川発電所 専用線」などで検索すれば先輩諸氏の現地調査レポートが出て来る。信濃川発電所工事において、小千谷が関係してくるのは小千谷発電所を建設する三期工事以降、三期工事の本格着工は戦後昭和23年8月である。にもかかわらず、昭和22年当時の写真に三期工事に向けた専用線が上越線(東)小千谷駅から伸びているのである。信濃川右岸は線路の様子がはっきりとしており、停車場や材料置場のような広場も見られ、信濃川には橋脚のような物が残され、左岸部でも盛土によるスイッチバック構造が見て取れる。まるで「工事中」とばかりの様子だ。

実は戦中の昭和19年3月に三期工事は一度着工されている。しかし、この戦中の三期工事は郷土史などでも資材・人員の枯渇によりすぐに工事は中止となったという程度の記述のもので、大した工事は行われていなかったと推測していた。実際、着工から約一年後、翌昭和20年2月には三期工事は中止され、再着工は戦後の昭和23年8月を待たねばならなかった。以上の認識で私は考えていたから、冒頭写真が撮影された昭和22年11月時点で材料運搬線が完成間近の様子であることに違和感を感じていたのである。

三期工事については、日本国有鉄道信濃川工事事務所〔編〕信濃川水力発電工事誌に詳しい。改めて三期工事について同書で調べてみた所、以下の様に書かれている。

  (前略)信濃川発電第3期工事は、太平洋戦争中軽金属増産に寄与するため、2箇年完成の目標の下に
  昭和19年3月一斉に工事に着手したが、戦局不振のため資材が続かず、戦力培養工事なる名目の下
  に辛うじて命脈を保っていたが、間もなく工事を中止し昭和20年2月工事請負契約を解除した。
   終戦後昭和21年10月25日、失業救済の名目の下に工事を再開したが、これ叉時期尚早の故を以て
  翌22年4月再中止の已むなきに立至った。
   しかし乍ら第3期工事の完成は、終戦後漸次立直って来た東京近郊の輸送を賄う上で、国鉄とし
  ては欠くべからざるものであったため、関係方面とも種々折衝を重ねた結果、昭和23年8月2日に
  認承を得て、昭和23年10月20日に工事に再々着手した。
   その後工事は比較的順調に進み3箇年弱の工期で、山本調整池以外の工事は総て竣功し、昭和
  26年8月1日50,000kWの発電を開始した。

  日本国有鉄道信濃川工事事務所(1952.3). 信濃川水力発電工事誌.P2

これによって、三期工事は戦中に二回も着工と中止を繰り返していることが分かった。そして、終戦から約一年後の昭和21年10月に二度目の着工を迎えながらも、僅か半年後の昭和22年4月に再度中止となっている。昭和22年11月に撮影された上記空中写真における材料運搬線に「工事中」感があるのは、この二度目の着工当時に昭和22年4月まで材料運搬線の工事も進められていたからなのだろうか。更に材料運搬線に関する記述を引用する。

  この下部構造は昭和19年1月工事に着手したがその後種々の情勢の変化により昭和20年2月解約
  し昭和21年9月再着手、同23年打切り竣功にし昭和23年10月3度目の着手で同24年漸く竣功したの
  である。これに引続き上部構造の鉄桁架設に着手下路構桁2連はケーブルエレクションによつて又
  鈑板6連は手延式により何れも順調に進行して同年7月竣功した。

  日本国有鉄道信濃川工事事務所(1952.3). 信濃川水力発電工事誌.P549

これにより、発電工事全体と材料運搬線の工事時期に数か月のズレがあるが、三期工事として昭和19年~昭和20年、昭和21年~昭和22年、昭和23年~と着工と中止を繰り返していたことが分かる。
特に「昭和21年9月再着手、同23年打切り竣功にし」という記述から、戦後から一年ちょっとで二回目の工事着手があったことが分かった。上部構造を橋桁のことを言っていることから、下部構造とはおそらく路盤や橋脚のことだろうと推測される。二度目の着工自体は「翌22年4月再中止」とされているため、材料運搬線の工事がその先の「同23年打切り竣功に」するまで行われていたかは定かではない。仮に「同23年打切り竣功に」するまで工事が細々とでも行われていたのだとしたら、上記空中写真の昭和22年11月撮影時に工事を進行させていたと言えるし、私が感じた「工事中」感もあながち間違ってはいないと言える。

更に、この戦争終盤から戦後にかけて採算着工中止を繰り返された三期工事については、日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌に当時の工事関係者の手記が残されている。それらの記述から、当時の状況を垣間見ることができる。仮説に少しでも肉付けしたいため、当時の状況を示した部分をいくつか引用したい。

  阿部謙夫(5代所長、昭和14年7月~昭和20年5月)
  (前略)第3期工事は戦時中、隧道、水槽、鉄管路、発電
  所基礎、放水路の工事に着手し、隧道は導坑はほゞ全線貫通したが、戦争の形勢不利となり、国内
  情勢も工事の進行を許さなくなったので遂に中止した。その後その出来高払の決定が厄介であっ
  た。それは、戦争の終り頃は、物価が日々に上昇する故、一応定めた単価が、10日位たつと、極め
  て不合理なものの様に思われ、果しがなかったからである。最後に施設局長室の会議で、自分が悪
  者になって、この問題に終止符をうった様に記憶する。

  日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P32

  伊集院久(6代所長、昭和20年9月~昭和21年)
  (前略)信濃川地方施設部は第2期工事を既に竣功し千手発電所は送電を開始しておりました。尚残工事
  がありましたので跡仕末程度の工事を続け一方第3期工事は着々として準備せられ一部無理乍ら着工した
  箇所もありましたが、太平洋戦争のため11月中止に決定致したのであります。従って私の在任中は見るべ
  き工事もありませんでしたが国鉄関門隧道は勿論のこと当信濃川水力発電工事も続行すべしとの意見もあ
  り内々準備的工事は進めたのであります。21年秋頃から再着工となりましたが私は本格着工を見ずして
  下関地方施設部へ転勤を命ぜられたのであります。

  日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P33

  岡本港(7代所長、昭和22年4月~昭和24年6月)
  (前略)昭和22年~24年といえば、敗戦の傷手が最も身にしみた時で、何かと戦後の虚脱状態からはい上
  がろうともがいているのに、一方引揚者は益々増して来るし、食糧問題は深こくで、好転の兆しは見えそ
  うも無かった。例の2月1日のストライキは時の至上命令で中止になったが、了解に苦しむ様な事件が相つ
  いでおこり、何時如何なる事態に立ちいたるか、誠に暗たんたるもので、しかもこれに対して何等するこ
  となく、ただ手を拱いてじり貧になって行くのを待っているような情ない有様でした。
   時の鉄道は連合軍最高司令部民間運輸局(C.T.S.)の督監下にあり、占領軍の進駐に必要な以外はすべて
  禁止で、線路も道路も戦争のために破損した所を必要最小限度に復旧することだけが辛うじて許された。
  又このC.T.S.はなかなか頑固で、或時鉄筋コンクリート桁にゲルバー式を持出した処。何としても許可に
  ならない。考えて見れば米人のきらう独逸式の設計を持出したことはうかつといえば、うかつだったかも
  しれないが、これを許可しなかった頑固さは相当のものだ。それよりも之を納得させるには少なからぬ勇
  気が必要だったのは今にして思えば笑止の沙汰であります。
   以上の様な状況の下で、当時あらゆる公共事業にさきがけて、信濃川第3期がよく着手までこぎつけた
  ものだと思います。当時の電気局、施設局の方々に敬意を表します。後からきいたことですが、事実C.T.S.
  に対して、戦災復旧に明け暮れしているようなことでは、何時になっても、日本の鉄道はたちなおらない。
  建設も改良もない鉄道は結局消えて行くのを待つ様なもので、今新規工事を着手するとすれば信濃川第3期
  工事が、最も手つとり早く、直ちに効果がある。というわけで、或は頑強に抵抗し、或は哀訴嘆願したこ
  とは、当時の様子を知っているものでなければ、想像することもむつかしい事で、現在脚光を浴びている、
  東海道新幹線を着手するよりも、ちがった意味の困難性があったわけです。

  日本国有鉄道信濃川工事局(1962.3).信濃川30周年記念誌.P34

上記、戦中から戦後にかけての3人の所長の手記からも、当時の工事の困難が伺われる。その中で、6代所長の記述に気になる点がある。戦後すぐに着任した同氏であるが、その中に「当信濃川水力発電工事も続行すべしとの意見もあり内々準備的工事は進めたのであります。21年秋頃から再着工となりましたが私は本格着工を見ずして下関地方施設部へ転勤を命ぜられたのであります。」という記述がある。この方はまさに「終戦後昭和21年10月25日、失業救済の名目の下に工事を再開した」時の信濃川事務所所長だ。そして、「内々準備的工事は進めたのであります」とある。この内々に進めた準備的工事がどの期間で行われていたのかは一切分からないが、準備工事が第三期工事着工・打切とは別な時間軸で進められていた可能性を示唆している。準備工事とはあくまで附帯設備の工事のことであり、今までの信濃川水力発電所工事でも材料運搬線の工事は準備工事の一つとして紹介されてきている。これらのことから、二度目の三期工事が「翌22年4月再中止」とされているものの、小千谷駅~小地谷発電所間の材料運搬線についてはその先の「同23年打切り竣功に」するまで細々と行われていた可能性は十分にあると考えられる。〇期工事と言われているものは、あくまで水路隧道や発電所などの大規模な工事を指すものであって、その陰で準備工事等の工事は細々と続けられていたと考える方がしっくりくる。戦争に翻弄されながら、鉄道も信濃川の面々も来るべき再着工の希望を捨ててはいなかったはずであるから、三期工事再着工のために準備工事を進め、いざ再着工となった際にすぐさま工事に取りかかれる環境を整備しておくことはあり得る話だと思う。




最後に。上記空中写真では、左岸部(小千谷駅側)の軌道路盤上に、トロッコのような四角い物が3つ連なっているのが見て取れる。これが何なのかは分からないが、何らのものが軌道上路盤上にあるのだ。
まさか、工事が行われていない状態で放置されたものでも無かろうが、真相は私には分からない。