随時追記中 (最終更新10/30 19:00)
千手発電所は戦前を中心とした信濃川発電所一期・二期工事の施工であって、私は工事史などの資料を確認していない。
ないない言いつつ、千手発電所に関する工事について戦前の学会の雑誌に寄稿された論文が残っており、私はそれを頼りに調査を継続している。既に公開されている論文なので、本記事の最後に参照として紹介したい。本項はそれら論文に載っている図や写真を基に、千手発電所附近の材料運搬線の様子を紹介できればと思う。
まず、論文中に出て来る平面図・設備配置図と、建設当時の昭和23年米軍撮影の航空写真と、現代の航空写真を紹介する。
改めて見ると、現代google航空写真でも材料運搬線の跡は色濃い。
土地の利用方法が現代に至るまで、運搬線に沿ったような使われ方をしているのが分かる。上の配置図内に仮工場とあるが、仮工場の写真も論文内で紹介されている。
仮工場で行われていた作業として、主だったものは水圧鉄管の溶接作業だ。
精度が要求される水圧鉄管の現場組み立てを行っていたのが、まさに仮工場という場所だ。鉄は一般的に熔接などの高熱を受けると性質が変化する。つまり、溶接により本来の強度や腐食性がおおよそ悪い方向へ変化する。更に鉄は熱に依って変形するため、寸法精度が要求される鉄管の組立作業は種々の研究と優秀な熔接作業者を採用した。
紹介した写真の内、図10は仮工場内の鉄管溶接の現場だ。
これは千手発電所の鉄管溶接の様子であるが、同時期の鹿渡の東電信濃川発電所、後の小千谷発電所の現場でも鉄管はいくつかのパーツに分けられて鉄道輸送されてきている
いずれも専用線の終点近くに設置された仮工場で溶接され、トロッコなりで据え付け現場まで運ばれていた。例えば、東京電燈の鹿渡の鉄管工場も越後鹿渡駅から分岐した上部軌道の終点にあり、そこから輪に組み立てた鉄管をトロッコで現場まで運んでいた。現場での溶接をする必要がある中で精度を高めるために、輸送されてくる前の製造工場で組み合わせを綿密に行っていたと当時の資料が伝えている。これだけの大型の鉄管であるから、そもそも溶接による不良や欠陥に併せて自重による歪みも生じやすいため、施工には工夫を要したことが論文にも書かれている。
なお、鉄管の製造元は三菱の神戸造船所で、面白いエピソードがある。
同造船所は軍艦の建造を担っていた工場だった。その工場が鉄道省信濃川発電所のために鉄管を多数製造していたために、米国かどこかの偵察資料に「潜水艦を多数建造しているようである」という報告がされたらしい。時代を感じるエピソードだ。
図11は仮工場の全景だ。
遠く背景右端に十日町駅まで続く信濃川発電所材料運搬線の鉄橋と思われる長大な橋が見える。おそらく工場の奥が下平車庫と言われる場所だ。配置図にある「デリック」とは、写真に写っている通りのクレーンの一種。
三枚目。
十日町橋(多くは信濃川橋梁とされる。信濃川発電所材料運搬線に設けられた十日町駅~千手発電所間の鉄道橋)として紹介されている写真も添えておく。当時の信濃川の従事者には信濃川橋梁と呼ばれていた橋梁だ。当時、付近に信濃川を渡る永久橋は数える程しかなかったため、地元住民が鉄橋を渡ることは黙認されていたそうだ。
配置図からサージタンクの上流で圧力隧道を繋ぐ横坑が約160m伸びていることが分かる。
河岸段丘の中盤から崖を抜いて圧力隧道に至ってたであろう横坑。その横坑にも線路が描かれており、論文には750mm軌道と書かれているが、軽便の762mmのことだろうと思われるがどうだろう。仮に横坑の材料運搬線を上部軌道とした場合、今まで述べてきた材料運搬線と上部軌道を繋ぐクレーンも描かれている。その材料積み下ろしのためだろう上部軌道の平場らしき土地が、現代に至るまで残っているのが分かる。(その広場に行く車道が今でも残っているが、私は千手発電所に行きながらスルーしてて現地未調査)
上部軌道の全景がどうなっていたのかまでは私が調査した限りでは今でも分かっていない。しかし、どこかにそれを示す資料が残っていると信じている。
こういう下支えの上で出来上がった千手発電所。
上から建設期、竣工後の戦中期の戦時迷彩を施された千手発電所、そして2019年秋の千手発電所だ。
千手発電所建屋へも軌道が来ていたことが分かる。配置図にある通りだ。
おそらく建屋へ入っていく軌道も本線に繋がる軌間(1,067mm)だと思われるが、それを裏付ける記述を私は見つけていない。また、建設工事当時、軌道は鉄管の上をガーター橋で越えていたことが分かる。現在は軌道がはがされているだけでなく、コンクリートで埋められているようだ。
最後の写真を見ても、下平車庫の辺りの配線、妻有大橋の辺りに至るまで専用線の雰囲気が残ってると思う。
線路が見える、見える気がする。そういう妄想が加速した結果の当ブログの最近の記事だ。
また、千手発電所建設工事時に大型重量物輸送のために十日町から千手に至るまで本線規格の専用線が敷かれた。
実際に当時に千手へ大物の貨物を輸送してきた時の写真を紹介して終わりたい。
水車輸送
變壓器輸送
参考文献
北村市太郎(昭和15年) 「鐵道省信濃川發電水工事に應用せる電弧熔接に就いて」、熔接協会誌第10巻第8號、P295-304
氏家竹次郎・末本茂・川勝義男(昭和15年) 「鐵道省信濃川發電所水壓鐵管工事概況」、熔接協会誌第10巻第8號、P305-315
監修:佐野良吉 小野坂庄一 執筆:大島伊一ほか(1992年)「目で見る十日町・小千谷・魚沼の100年」、郷土出版社
溶接協会誌の黎明の頃の論文である。
当時、こんな大型の鉄管の金属同士の接合はリベットを採用するのが通例だった時代に、溶接を採用している鉄道省の本気を感じる。
仮工場の写真で紹介している論文の一部に、現在にも通じる曲げ試験、引張試験、衝撃試験を採用しているのも面白い。今でも通じる金属加工の基本的な機械特性を知る試験を当時の鉄道省は評価するほどの技術を持っていたと言える。万能試験機や、TEMやSEMなどの組織・電子レベルでの金属材料組織評価もない中で、機械的評価手法で加工精度向上を狙っていた。今のJRにこういう実用と基礎研究的要素の技術力があるかというと、鉄道総研などに受け継がれているものと思う。信濃川発電所建設は当時の鉄道が持つ最先端の技術を用いた施設であると言いたい。
千手発電所は戦前を中心とした信濃川発電所一期・二期工事の施工であって、私は工事史などの資料を確認していない。
ないない言いつつ、千手発電所に関する工事について戦前の学会の雑誌に寄稿された論文が残っており、私はそれを頼りに調査を継続している。既に公開されている論文なので、本記事の最後に参照として紹介したい。本項はそれら論文に載っている図や写真を基に、千手発電所附近の材料運搬線の様子を紹介できればと思う。
まず、論文中に出て来る平面図・設備配置図と、建設当時の昭和23年米軍撮影の航空写真と、現代の航空写真を紹介する。
改めて見ると、現代google航空写真でも材料運搬線の跡は色濃い。
土地の利用方法が現代に至るまで、運搬線に沿ったような使われ方をしているのが分かる。上の配置図内に仮工場とあるが、仮工場の写真も論文内で紹介されている。
仮工場で行われていた作業として、主だったものは水圧鉄管の溶接作業だ。
精度が要求される水圧鉄管の現場組み立てを行っていたのが、まさに仮工場という場所だ。鉄は一般的に熔接などの高熱を受けると性質が変化する。つまり、溶接により本来の強度や腐食性がおおよそ悪い方向へ変化する。更に鉄は熱に依って変形するため、寸法精度が要求される鉄管の組立作業は種々の研究と優秀な熔接作業者を採用した。
紹介した写真の内、図10は仮工場内の鉄管溶接の現場だ。
これは千手発電所の鉄管溶接の様子であるが、同時期の鹿渡の東電信濃川発電所、後の小千谷発電所の現場でも鉄管はいくつかのパーツに分けられて鉄道輸送されてきている
いずれも専用線の終点近くに設置された仮工場で溶接され、トロッコなりで据え付け現場まで運ばれていた。例えば、東京電燈の鹿渡の鉄管工場も越後鹿渡駅から分岐した上部軌道の終点にあり、そこから輪に組み立てた鉄管をトロッコで現場まで運んでいた。現場での溶接をする必要がある中で精度を高めるために、輸送されてくる前の製造工場で組み合わせを綿密に行っていたと当時の資料が伝えている。これだけの大型の鉄管であるから、そもそも溶接による不良や欠陥に併せて自重による歪みも生じやすいため、施工には工夫を要したことが論文にも書かれている。
なお、鉄管の製造元は三菱の神戸造船所で、面白いエピソードがある。
同造船所は軍艦の建造を担っていた工場だった。その工場が鉄道省信濃川発電所のために鉄管を多数製造していたために、米国かどこかの偵察資料に「潜水艦を多数建造しているようである」という報告がされたらしい。時代を感じるエピソードだ。
図11は仮工場の全景だ。
遠く背景右端に十日町駅まで続く信濃川発電所材料運搬線の鉄橋と思われる長大な橋が見える。おそらく工場の奥が下平車庫と言われる場所だ。配置図にある「デリック」とは、写真に写っている通りのクレーンの一種。
三枚目。
十日町橋(多くは信濃川橋梁とされる。信濃川発電所材料運搬線に設けられた十日町駅~千手発電所間の鉄道橋)として紹介されている写真も添えておく。当時の信濃川の従事者には信濃川橋梁と呼ばれていた橋梁だ。当時、付近に信濃川を渡る永久橋は数える程しかなかったため、地元住民が鉄橋を渡ることは黙認されていたそうだ。
配置図からサージタンクの上流で圧力隧道を繋ぐ横坑が約160m伸びていることが分かる。
河岸段丘の中盤から崖を抜いて圧力隧道に至ってたであろう横坑。その横坑にも線路が描かれており、論文には750mm軌道と書かれているが、軽便の762mmのことだろうと思われるがどうだろう。仮に横坑の材料運搬線を上部軌道とした場合、今まで述べてきた材料運搬線と上部軌道を繋ぐクレーンも描かれている。その材料積み下ろしのためだろう上部軌道の平場らしき土地が、現代に至るまで残っているのが分かる。(その広場に行く車道が今でも残っているが、私は千手発電所に行きながらスルーしてて現地未調査)
上部軌道の全景がどうなっていたのかまでは私が調査した限りでは今でも分かっていない。しかし、どこかにそれを示す資料が残っていると信じている。
こういう下支えの上で出来上がった千手発電所。
上から建設期、竣工後の戦中期の戦時迷彩を施された千手発電所、そして2019年秋の千手発電所だ。
千手発電所建屋へも軌道が来ていたことが分かる。配置図にある通りだ。
おそらく建屋へ入っていく軌道も本線に繋がる軌間(1,067mm)だと思われるが、それを裏付ける記述を私は見つけていない。また、建設工事当時、軌道は鉄管の上をガーター橋で越えていたことが分かる。現在は軌道がはがされているだけでなく、コンクリートで埋められているようだ。
最後の写真を見ても、下平車庫の辺りの配線、妻有大橋の辺りに至るまで専用線の雰囲気が残ってると思う。
線路が見える、見える気がする。そういう妄想が加速した結果の当ブログの最近の記事だ。
また、千手発電所建設工事時に大型重量物輸送のために十日町から千手に至るまで本線規格の専用線が敷かれた。
実際に当時に千手へ大物の貨物を輸送してきた時の写真を紹介して終わりたい。
水車輸送
變壓器輸送
参考文献
北村市太郎(昭和15年) 「鐵道省信濃川發電水工事に應用せる電弧熔接に就いて」、熔接協会誌第10巻第8號、P295-304
氏家竹次郎・末本茂・川勝義男(昭和15年) 「鐵道省信濃川發電所水壓鐵管工事概況」、熔接協会誌第10巻第8號、P305-315
監修:佐野良吉 小野坂庄一 執筆:大島伊一ほか(1992年)「目で見る十日町・小千谷・魚沼の100年」、郷土出版社
溶接協会誌の黎明の頃の論文である。
当時、こんな大型の鉄管の金属同士の接合はリベットを採用するのが通例だった時代に、溶接を採用している鉄道省の本気を感じる。
仮工場の写真で紹介している論文の一部に、現在にも通じる曲げ試験、引張試験、衝撃試験を採用しているのも面白い。今でも通じる金属加工の基本的な機械特性を知る試験を当時の鉄道省は評価するほどの技術を持っていたと言える。万能試験機や、TEMやSEMなどの組織・電子レベルでの金属材料組織評価もない中で、機械的評価手法で加工精度向上を狙っていた。今のJRにこういう実用と基礎研究的要素の技術力があるかというと、鉄道総研などに受け継がれているものと思う。信濃川発電所建設は当時の鉄道が持つ最先端の技術を用いた施設であると言いたい。