◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

信濃川水力発電所工事材料運搬線(小千谷駅~小千谷発電所間信濃川橋梁右岸部の踏切)

2022-09-23 20:57:35 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線


冒頭の写真は、信濃川水力発電工事誌に掲載されている、小千谷駅~小千谷発電所間信濃川橋梁右岸部の信濃川橋梁のターンバックルの写真だ。ターンバックルとは、要は橋梁を支える金具のような物だったのだろう。注目して欲しいのは、材料運搬線の線路が写っている点である。更に、踏切らしき構造物も見て取れる。当然、今でいう所の四種踏切である。



そして、この写真を撮った場所は信濃川橋梁右岸部と判明しているので、その場所の現在の様子をgooglemapsやストリートビュー、空中写真で見てみよう。



まず、信濃川河岸段丘の段丘面上にある林。



それっぽい地形が残っている。なお、この農道はそのまま材料運搬線の転用道路だと思われる。

一方、空から見たらどうなるか。

 

左右の写真で方位が違えど、当時の道路や材料運搬線の様子は今でも見て取れるのが分かる。段丘面上の林の位置も変わってない。私の趣味も、こういう地道なことを調べる段階。

信濃川発電所材料運搬線(小千谷駅構内)

2022-07-24 19:27:08 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線


上越線、小千谷駅の高崎方の踏切から高崎方を向いて撮影した写真にポンチ絵を描き加えた写真だ。

本線の山側にそれらしきレール(軌条)が残っているものの、これが小千谷発電所材料運搬線由来のものかどうか私は知らない。

ただ、実際の材料運搬線はこの数100m先で本線の下をくぐる線路だったはずだし、もっと山側を高度を下げながら通っていたのではと思う。

今では現地は平地となり、それらしき切取りの痕跡も見て取れない。

ただ、上記写真の左側の斜面の上にはこれでもかと鐵道の用地杭が林立していた。

以下に当時の空中写真を示す。上記写真を撮影した地点は下記写真の左上に写っているものだ。


千手発電所竣工式(S14.12.1~3)の軽便線と千手発電所の歌

2022-07-10 05:58:20 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線

軽便線(十日町、千手間)千手発電所落成式当時(S14.12.3)

私は郷土史の写真集でこの写真を見付けた時、キャプションから読んで字の如く1939年12月3日に千手発電所の落成式で撮影された写真だろうというのは分かった。しかし、写真が撮影されたシチュエーションを推測することが出来なかった。本記事では、この写真の撮影されたシチュエーション、特に写真に写っている人物に焦点を当てていきたい。
結論から申し上げると、客車に向かってこちらに背を向けている人物が鉄道省信濃川電氣事務所第五代所長阿部謙夫氏、客車から降りようとしている人物が鉄道(逓信)大臣永井柳太郎氏である。永井大臣は信濃川水力発電所一期工事竣工による千手発電所發電開始に伴う落成式の来賓で妻有の地に降り立った。そして、それを出迎える阿部信發所長と言う構図だ。

では何故、それぞれの人物が判明したかと言うと、ある一冊の書籍の記述による。それは、北海道放送社長室編「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」という書籍に依る。
同書にはこの書籍にも冒頭に引用したものと同じ写真が掲載されており、そのキャプションは「同、鉄道大臣永井柳太郎氏の視察出迎え、後ろ向」とある。「同」とあるは、並びの写真に「45才(昭和14年)ころ国鉄信濃川電気事務所々長時代」という写真が掲載されていることから、45才(昭和14年)のことを指しているものだろう。このことから、私は客車に向かってこちらに背を向けている人物が鉄道省信濃川電氣事務所第五代所長阿部謙夫氏、客車から降りようとしている人物が鉄道大臣永井柳太郎氏であると判断した。なお、同じ写真で一方は「落成式」として、もう一方は「永井大臣の視察」としている。どちらかが誤った記述ではなく、永井大臣が落成式のために千手発電所にいらっしゃった事実が記載されている。

では、キャプションと千手発電所落成式はそもそも日付が合致するのかという点について検証したい。
千手発電所 1939年11月 信濃川水力発電第1期工事しゅん功(千手発電所1,2,3号機発電開始)
阿部謙夫 第五代信濃川電氣事務所所長 在任期間 1939年7月11日~1945年9月17日(?) ※後任の伊集院久第六代所長の着任が1945年9月18日のため。
永井柳太郎 鉄道大臣(逓信大臣兼任) 在任期間 1939年8月30日~1939年11月29日(逓信大臣 1939年8月30日~1940年1月16日)

ここでの千手発電所竣功や登場人物の在任期間も一致する。
永井柳太郎大臣こそ鉄道大臣と逓信大臣の兼任が免じられて1939年12月3日時点では逓信大臣である。竣功式とはタッチの差で兼務を免じられており、鐡道大臣ではない。これは裏を取った話ではないが、大臣来訪の事前調整や現役逓信大臣であることから鉄道大臣を免じられたとしても式典には参加する方向で各方面が纏まったのではないかと推測している。なお、私は当時の政治の話は全く分からないから的外れな推測である可能性が少なくない。それでも、永井大臣が千手発電所落成式にご臨席されたのは事実だと思うし、上記写真のキャプションが誤りであるとも考えていない。

なお、千手発電所竣工式はいつ行われたのか。冒頭の写真のキャプションからは1939年12月3日が有力だ。しかし、実際には1939年12月1日~3日までの3日連続で相当盛大に執り行われたらしい。以下にその根拠となる記述を引用する。

まず、竣工式について「信濃川30周年記念誌」の記述を引用する

畑山正平氏によれば「工事の竣功式が3日間も続き多数の来客を迎えたときの皆さんの気持ち
北村市太郎氏によれば「竣工式は千手の発電所事務所でやりましたが、二等寝台専用列車が、千手の側線迄入って来ましたのも古今未曾有の出来事でしょう。丁度昭和14年は大温水で、豊富、低廉な電気を供給する事を看板に日発が発足した年で、日発は非常に非難を受けた時に、信濃川が発電開始したのですから真にタイムリーでした。それで竣工式も盛大なものでした。
日本国有鉄道信濃川工事局(昭和37.3)「信濃川30周年記念誌」より一部引用

更に「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」の記述を引用する

杉山寅之助氏によれば「昭和十四年十一月待望久しかった第一期工事が完成し、同年十二月一日に新装になった千手発電所で竣工式ならびに祝賀会が行われ、発電所建設の功労により永井鉄道大臣から表彰を受けられました。私達部下の喜びはもちろんのこと阿部さんの感激は如何ばかりであったでしょうか、もともと阿部さんは技術屋でありながら詩歌の造詣に深い方だと聞いておりましたが、阿部さんは当時の感慨の迸しりを歌に托して表現されたのは当然のことだったでしょう。阿部さん自作の『信濃川発電所の歌』はレコードに吹き込まれて祝賀会の日に発表されました。当時私は会場接待係をしていたのでスピーカーから会場に流れる『みすず刈るちようしなのより越を流れる信濃川・・・』あのレコードの歌声が今でも目を瞑れば聞こえてくるような気がします。
北海道放送社長室編(昭和48.8)「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」より一部引用

これらの記述から、竣功式は1939年12月1日から3日間行われたことが分かる。永井大臣が十日町の地に降り立った新聞記事を探していないものの、一枚の写真のキャプションの裏取りとして、私は十分満足している。
なお、最後に信濃川発電所の歌とある。これも北海道放送社長室編(昭和48.8)「その微笑 : 阿部謙夫追憶誌」に楽譜ごと掲載されているので引用して、〆たいと思う。


オークションの写真より(小千谷~小千谷発電所間)

2022-06-08 19:52:24 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
ヤフオクで「信濃川発電所」と検索すると、信發材料運搬線の古い写真が引っ掛かる。と、以前別な記事に書いた。
例によってお値段もそこそこするので私には手が届かない。しかし、サンプル画像からでも当時の様子が一部判断できるので紹介したい。
当該オークションのURLはリンク切れになろうから引用しない。ヤフオクで「信濃川発電所」と検索すると出て来る。

  

私が注目する情報は「昭和28年 信濃川発電所 小千谷発電所引込線」で、まずは戦後の小千谷駅~小千谷発電所間の材料運搬線であることが分かる。
あとは背景の山の形及び線路の線形(山側を背景にした左曲線)から、当該写真と同じアングルを探すだけだ。
この2点を場所の特定材料とした理由は、山の形は大きく変化しない(木々が伸びる程度)、線路の曲線は現在に至るまで土地の区割りに残っていたりするためだ。

 
すぐにgoogleストリートビューで同じ形の山を背景にした場所を特定する。
次に少し左側に移動した画像も載せる。


山の鞍部が左側の建物で隠れているものの、そこは前後の写真の比較から背景の山の形が一致することが分かる。
小千谷にあるスーパーの駐車場の端が曲線を描くという合理的ではない形をしており、その曲線が実は材料運搬線の線路だったと知る人がどれくらい現地にいるのだろう。
それくらい、今も現地の生活圏にそれらしきものが残されていることが分かる。

以下の空中写真を並べると一目瞭然だ。
 


当時の小千谷に設けられていた材料集積場兼車庫の写真から、撮影地点を示すと以下の写真の様になる。


更に、材料運搬線(本線)と材料集積場の側線とが交わる川側の地点で撮影しただろう写真もヤフオクに出ている。
川側と判断したのは、写真に写っているのが材料集積場の端であり背景に山が写っているからである。要は小千谷発電所を背にして、上越線側を向いている写真だ。


この写真の撮影地点は空中写真と背景の山の形から撮影地点を割り出した。
材料運搬線(本線)と材料集積場の側線とが交わる川側の地点を当時の空中写真から割り出し、現在の空中写真と比較した上で、googleストリートビューで背景の山の形が一致するのを確認した。
 
 

空中写真に上記写真の撮影地点を示すと以下のようになる。
 

家でもできる、信濃川水力発電所工事材料運搬線調査。いわゆる机上調査。
現地を歩く現地調査は絶対に外せないのは言うまでもない。ストリートビューも現地調査には敵わない。現地に行く度に発見があるし、そもそも妻有に行くこと自体が楽しい。しかし、図書館で可能な限り資料を複写したり、時にインターネットで公開されている当時の論文や土木学会の雑誌掲載記事を読んだり、古本屋で工事誌を買ったりして蒐集した数々の資料の中身を整理するのも楽しい時間だ。これが今の私の「趣味」と言える対象であり、「趣味の時間」と言えると思う。年を追うごとに自分という感覚が霧散して行くのを感じながら、それでも趣味として興味が尽きず、私が私として調べることが楽しい「鐵道省(JR東日本)信濃川水力発電所」なのです。