1つ前の記事で書きましたが、1月1日に私の大切な友人がこの世を去りました。去年の3月には、カリフォルニアを訪れてくれて、奥さんと一緒にとても元気な姿を見せてくれました。3カ月前までは全く異常なし。ところが2カ月前に悪性リンパ腫(Lymphoma, リンパ腺ガン)が見つかり、手術で腫瘍を除去したそうです。でも、ガンはすでにステージ4だったようです。
抗がん剤治療を行っていたのですが、年末に急に病状が悪化し、「あとどのくらいもつか分からない」と彼のお嬢さんから連絡がありました。というわけで、急遽彼の住むミネソタ州ミネアポリスに飛び、彼のお見舞いに行って来ました。なんとか亡くなる前に彼に会えて、4日間一緒に過ごし、色んな話が出来てよかったです。彼は私がお見舞いに来てくれたことを、心の底から喜んでくれました。そういう意味では、本当によかったと思います。
彼の名前はビルと言います。彼と初めて会ったのは、今から20年以上前の1997年の秋でした。私が以前勤めていた会社から、海外の大学に留学して将来のビジネスのネタを見つけて来いという命令が下り、留学先に選んだのがミネソタ大学でした。「何でミネソタ大学を選んだんだい?」とよく聞かれます。日本人が企業留学で選ぶのは通常西海岸かボストン、ニューヨークなどの東海岸の大都市です。私は、どうせ行くんだったら日本人があまり住んでいないアメリカらしい場所にしようと思っていました。その方が英語も上達するし、自分の経験としてもいいだろうと考えたからです。
でも、実際にミネソタ州で生活を始めると、知り合いは居ないし、日本語を喋れる相手も家族以外居ないし、なかなか辛いものがありました。アメリカのど真ん中の街でやって行くのは、なかなか大変だなぁと思っていました。ミネソタに住み始めてから2カ月くらい経った時に、ちょっと運動不足になっていたので、ミネソタ大学のスイミングプールに通い始めました。そこで、出会ったのがビルです。泳ぎ終わってシャワーを浴びに行こうとしていた時に、私に話しかけて来たのです。当時私は34歳、ビルは54歳でした。
それから頻繁にプールでビルと会って話すようになりました。そして、ビルを通して友達になったのが、当時24歳のディラジというインド人の留学生でした。後で分かったのですが、彼は私と同じ研究室に所属しており、大学でもしょっちゅう顔を合わすようになり、彼ともすごく仲良くなりました
ビルは、ディラジと私を色んな所に遊びに連れて行ってくれました。大学近くのバーから始まり、色んなレストラン、ジャズのライブコンサート、ゴルフ、本当に3人で色んな場所に行きました。サンクスギビングやスーパーボールの時には、自宅に家族共々招待してくれて、手作りの料理でもてなしてくれました。今でも、2年ほどで居なくなる、20歳年下の単なる留学生に、何であそこまで良くしてくれたのか、ちょっと不思議ですね。でも、そこがビルの素晴らしい所です。
ビルのおかげでミネソタでの2年間はとても楽しいものとなり、知り合いもたくさん増えました。大学の研究室の連中と溶け込めるようになったのも、ビルがディラジを紹介してくれたからです。そして、今働いている会社から「働いてみないか?」と声をかけてもらったのも、大学の研究室の卒業生を通してでした。
多分、あの時ミネソタ大学のプールでビルと会っていなければ、私が今アメリカに住んでいることはないでしょう。というわけで、ビルは私の人生を変えてくれた大恩人なのです。本当に感謝しても感謝しきれません。
今回は、現在ニューヨークに住んでいてIT企業の副社長になっているディラジも、ミネソタに駆け付けました。そして、3人で昔ミネソタで過ごした2年間の思い出をたくさん、たくさん話しました。ビルは、自分の命が残り少ないことを医者に告げられており、声もまともに出なくなっていましたが、それでも昔のように冗談を一杯言って、ディラジと私を楽しませてくれました。ビルが最後までビルらしく生きたことは、本当に素晴らしいことだと思います。
(ディラジの結婚式での写真。ディラジはビルと私をGroomsmenに選んでくれました)
ビルはもうこの世を去ってしまいましたが、ビルとの思い出とビルへの感謝の気持ちは、これからも永遠に私の心に住み続けます。ビル、お疲れ様でした。安らかにお眠り下さい。
ビルのことはどうしても言葉に残しておきたかったので、今日のブログに書かせてもらいました。というわけで、今日はサイクリングネタもHaruネタもなしです。悪しからず。
では。
抗がん剤治療を行っていたのですが、年末に急に病状が悪化し、「あとどのくらいもつか分からない」と彼のお嬢さんから連絡がありました。というわけで、急遽彼の住むミネソタ州ミネアポリスに飛び、彼のお見舞いに行って来ました。なんとか亡くなる前に彼に会えて、4日間一緒に過ごし、色んな話が出来てよかったです。彼は私がお見舞いに来てくれたことを、心の底から喜んでくれました。そういう意味では、本当によかったと思います。
彼の名前はビルと言います。彼と初めて会ったのは、今から20年以上前の1997年の秋でした。私が以前勤めていた会社から、海外の大学に留学して将来のビジネスのネタを見つけて来いという命令が下り、留学先に選んだのがミネソタ大学でした。「何でミネソタ大学を選んだんだい?」とよく聞かれます。日本人が企業留学で選ぶのは通常西海岸かボストン、ニューヨークなどの東海岸の大都市です。私は、どうせ行くんだったら日本人があまり住んでいないアメリカらしい場所にしようと思っていました。その方が英語も上達するし、自分の経験としてもいいだろうと考えたからです。
でも、実際にミネソタ州で生活を始めると、知り合いは居ないし、日本語を喋れる相手も家族以外居ないし、なかなか辛いものがありました。アメリカのど真ん中の街でやって行くのは、なかなか大変だなぁと思っていました。ミネソタに住み始めてから2カ月くらい経った時に、ちょっと運動不足になっていたので、ミネソタ大学のスイミングプールに通い始めました。そこで、出会ったのがビルです。泳ぎ終わってシャワーを浴びに行こうとしていた時に、私に話しかけて来たのです。当時私は34歳、ビルは54歳でした。
それから頻繁にプールでビルと会って話すようになりました。そして、ビルを通して友達になったのが、当時24歳のディラジというインド人の留学生でした。後で分かったのですが、彼は私と同じ研究室に所属しており、大学でもしょっちゅう顔を合わすようになり、彼ともすごく仲良くなりました
ビルは、ディラジと私を色んな所に遊びに連れて行ってくれました。大学近くのバーから始まり、色んなレストラン、ジャズのライブコンサート、ゴルフ、本当に3人で色んな場所に行きました。サンクスギビングやスーパーボールの時には、自宅に家族共々招待してくれて、手作りの料理でもてなしてくれました。今でも、2年ほどで居なくなる、20歳年下の単なる留学生に、何であそこまで良くしてくれたのか、ちょっと不思議ですね。でも、そこがビルの素晴らしい所です。
ビルのおかげでミネソタでの2年間はとても楽しいものとなり、知り合いもたくさん増えました。大学の研究室の連中と溶け込めるようになったのも、ビルがディラジを紹介してくれたからです。そして、今働いている会社から「働いてみないか?」と声をかけてもらったのも、大学の研究室の卒業生を通してでした。
多分、あの時ミネソタ大学のプールでビルと会っていなければ、私が今アメリカに住んでいることはないでしょう。というわけで、ビルは私の人生を変えてくれた大恩人なのです。本当に感謝しても感謝しきれません。
今回は、現在ニューヨークに住んでいてIT企業の副社長になっているディラジも、ミネソタに駆け付けました。そして、3人で昔ミネソタで過ごした2年間の思い出をたくさん、たくさん話しました。ビルは、自分の命が残り少ないことを医者に告げられており、声もまともに出なくなっていましたが、それでも昔のように冗談を一杯言って、ディラジと私を楽しませてくれました。ビルが最後までビルらしく生きたことは、本当に素晴らしいことだと思います。
(ディラジの結婚式での写真。ディラジはビルと私をGroomsmenに選んでくれました)
ビルはもうこの世を去ってしまいましたが、ビルとの思い出とビルへの感謝の気持ちは、これからも永遠に私の心に住み続けます。ビル、お疲れ様でした。安らかにお眠り下さい。
ビルのことはどうしても言葉に残しておきたかったので、今日のブログに書かせてもらいました。というわけで、今日はサイクリングネタもHaruネタもなしです。悪しからず。
では。