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「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

ゲーデル・ファンタジー 第2部

2007-11-04 17:50:22 | 心身宇宙論
…というわけで(注)、数学というのは自然そのものを模したものではなく、定義に従って人工的に構築されたものである、というのが前回の趣旨だった。そういう意味で、数学は他の自然科学とは大きく違うものと言えるかもしれない。物理とか化学とか、他の自然科学が「現実にあるものを読み解き、そこに横たわる原理(らしきもの)を“解釈”する」ことを目的としているのに対して、数学は「ある約束事に基づいて、世界そのものを“創造する”」学問なのである。もし、世界を“創造する”者を「神」と呼ぶなら、世界を“解釈する”だけの物理学者や化学者はどう逆立ちしても「神」にはなれないが、数学者なら「神」になることができる、ということだ。
(注)何が「…というわけ」なのかは、「ゲーデル・ファンタジー 第1部」を見てちょ。

しかし、一般に「神」は2つの能力を有する者と考えられている。1つは、世界を創造すること。そしてもう1つは、全知全能であること。ゲーデルらの活躍した数学基礎論という分野は、元々は「完全な数学体系は作り出せるか」をテーマとしたものだったが、それは言い換えれば「数学者は、真の意味で『神』となり得るか」がテーマだった、と言うことができるかもしれない。なぜなら、完全な数学体系とは、その中には一切の矛盾がなく、また未解決の問題を全く含まない、というものであり、それは「その世界の中では、数学者は全知全能である」ということと同義なのだから。

そしてそれは一時、ほとんど手が届くかに見えた。だが、ゲーデルの不完全性定理によって、それは永遠に手の届かないところへと行ってしまうことになった。つまり、不完全性定理とは「たとえ意のままに世界を創造することができる数学者であっても、完全な意味で『神』になることはできない」ことを証明したものだと言える。そう考えると、不完全性定理が数学界に及ぼした衝撃の大きさがわかろうというものだ。

だが、その前にゲーデルは完全性定理、というものも発表している。まず、そこから述べなくてはならない。

数学基礎論は、幾何学や代数学のような「ある体系の中で生じた問題を考える」のではなく、「数学体系そのものを数学的に考える」という分野である。それは「第1部」で述べたことを使って言い換えるなら、「定義に基づく公理系によって記述される数学の形式論理体系を、数学的に考える」と言い換えてもよい。こんな言い換えで何がどう変わるのかというと…

単に「数学を数学で考える」としてしまうと、考える道具自体も数学だから、数学が疑わしいとするとその道具である数学の信憑性も疑わしくなり、議論にならなくなってしまう。それに対して、考える対象を「形式論理体系」にすると、そこで行われるのは、ただの記号列の操作だけなので、直接的な「数学を数学で」という構図から抜け出すことができるのだ。でありながら同時に、この形式論理体系こそが数学体系に他ならない、というところがミソ(と、まぁこの当たりのことも「第1部」に書いたつもりなんだが…)。ということで以下、“体系”とは全て形式論理体系を指すものとする。

では、数学基礎論における「完全性」とは何か? それは「数学体系において、“正しいこと”と“証明できること”が同値であること」。そのことに何の意味があるのかというと…

上にも書いたが、形式論理の体系では全ての事柄が記号列で記述される。そう、あらゆる命題が有限個の記号列で記述されるのである。そして、証明とはその有限個の記号列の置き換えに過ぎない。有限個に記号列を置き換えるのは、有限の時間で足りる。つまり、“正しいこと”と“証明できること”が同値なら、有限の時間で“正しいこと”の全てが“証明できる”。つまり、その中に一切の矛盾がなく、また未解決の問題を全く含まない数学体系ができる、という寸法。
 
で、ゲーデルが完全性定理で証明したのが「ある体系の全てのモデルで正しい論理式は、例外なく必ず証明できる」、つまりは「ある体系の全てのモデルで共通して論理的に正しい事柄は、それを必ず証明できる」ということ。これによって、残るは「特定のモデルにおける完全性:そのモデルで正しい事柄は、全て証明できる」ことの証明に絞られたのである。そしてそのモデルとは、自然数の体系だった。なぜか?

実は、完全な数学体系を作るのはたやすい。例えば、φ(空集合)がそれだ。φは全く要素を持たない集合である。だから、どんなムチャクチャな形式論理の体系を持ち込んでも矛盾なく成り立ってしまう(だって、その約束事を適用すべき要素がないのだから)。つまり、Φは数学体系として完全なのである。
これでは、あんまりなので、もう1つ例を作ろう。例えば、集合{0}に通常の意味の加法と乗法を定義した世界を考えよう。O+0=0、0×0=0で、この世界は加法と乗法に関して閉じている上に、数学体系としても完全だ。

しかし、これらのモデルはこれ以上、何の発展性もない。意味のある数学的広がりを持った体系であるためには、最低でも自然数くらいは含んでいなければならないのである。そして、自然数が定義できれば、そこから数学体系を構築していけることが知られている(そのそも、数学は我々の祖先が「数を数える」ところから始まったのだから)。つまり、自然数の体系の無矛盾性や完全性が証明されたなら、数学体系の無矛盾性や完全性がそこから導かれることになる。

そして、この目論見を瓦解させたものこそ、ゲーデルの不完全性定理だったのである。その定理のステートメントを以下に示そう。

定理:自然数論を含む述語論理の体系Zは、もし無矛盾なら、形式的に不完全である。

つまり、自然数を含む形式論理の体系を完全なものにしようとすると、矛盾が生じてしまう(具体的には、命題PとPの否定が同時に証明できてしまう)のである。

この定理によって、上に述べたことが逆回りに動き出す。つまり、自然数の理論でさえ不完全にならざるを得ない以上、一般の数学体系は全て形式的に不完全なのである。これはまた「どんな数学体系の中にも“正しい”けれど“証明できない”事柄がなくなることはない」ことを意味し、従って「永久に数学者の仕事が終わることはない」ことを証明した、とも言われている。

…というわけで、やっと準備が終わったので、次はそれを医療の分野に適用していく。
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