アニメ『進撃の巨人』が、さまざまな未解明の謎を残しながらも一応終了。
「一応」というのは、まだ原作は未完で雑誌連載が続いており、アニメも一部、原作にないシーンを盛りこみながらも基本的には原作に沿って進んでいるため、そう遠からず続編が作られるだろうからだ。
ちなみに現時点では、アニメは原作の単行本で第9巻の途中までで、単行本は第12巻が刊行されるところ。作者の諫山創(いさやま つくる)はどこかのインタビューで「これからは終わりに向けて、広げてきた話を回収する方向に移る」というようなことを語っている。
とすると、場合によっては『鋼の錬金術師 Fullmetal Alchemist』の時のように、原作マンガとアニメが同時終了、ということになるかもしれない。
というわけで、物語としては明らかに中途半端なところで終わっているのだが、『進撃の巨人』は間違いなく2013年を代表するアニメになった。
その理由はいろいろ考えられる。例えば物語全体を非常に短い言葉で言い表せること。つまり、『進撃の巨人』とはとどのつまり「人類が人を喰らう巨人と戦う話」であり、全てがこのシンプルなストーリーの中に収斂していくようになっている。
そして、そのシンプルなストーリーと対称を成すように、物語の構成要素にはさまざまな謎が重層的に織り込まれている。実際、アニメでは25話を費やしてなお、ほとんどの謎は解かれていない。
しかし、そういったことは私がわざわざ指摘するまでもなく、もうわかりきったことなので、ここではそれとは違う角度から『進撃の巨人』について考えてみたい。ただし、私は原作を第5巻までしか読んでいないので、以下はアニメ『進撃の巨人』についての考察である。
『進撃の巨人』の中で繰り返し使われ、最も強い印象を受けたセリフが「この世界は残酷なんだ」という言葉である。このフレーズは時に「この世界は美しい」という言葉と一緒になって使われることもある。実際、『進撃の巨人』のED1のタイトルは「美しく残酷な世界」だった。
「この世界は美しい」というフレーズのバリエーションは、スピ系の中で語られる言葉によく見ることができる。曰く、
「この世界は愛に満たされている」
「あなたは生きているだけで素晴らしい」
「あなたは世界から祝福されている」
「この世界の全てに感謝を」
…
私も、そういった言葉が表す世界の像は大切だと思うし、そういった言葉を実際にインナージャーニーの中でも使っている。
しかし、世界は本当にただ美しいだけのものなのだろうか?
「この世界は残酷なんだ」というフレーズは、そういったスピ系的な言説が巧妙に隠してきた世界のもう1つの側面を明らかにしてしまったのだ、と私は見る。
『進撃の巨人』では、まるでこの言葉を証明するかのように、主人公を含め()主要な登場人物があっけなく死んでいく(そもそも、主人公がこんなにも早く死んでしまう話は『進撃の巨人』くらいだろう)。
それはもちろん物語の中の話だが、それは紛れもなく我々が今生きている現実の姿でもある。
『進撃の巨人』については以前、このブログの記事「『進撃の巨人』が進撃する」の中で、東日本大震災による津波被害を予見していたのではないか、ということを書いた。
『進撃の巨人』に限らず、優れたアーティストの作る作品は、それ自体、優れた予言者である。とすると、「この世界は残酷なんだ」というフレーズが示す世界の像が、我々にこれから突きつけられることになるかもしれない。
これは『進撃の巨人』とは関係ない私事なのだが、今年はあちこち移動する機会が多く、例年になく本──ミステリ──がよく読めた。特に何かを意図したわけではなく、単に読みたいと思うものを読んできたつもりだったが、『シンドロームE』、『GATACA』、『捜査官ポアンカレ──叫びのカオス──』と読み進み、『カルニヴィア1 禁忌』を読んだ時、何かに導かれているような気がした。これらは全て、言ってみれば「この世界の酷薄さ」を描いた作品だったからだ。
元々がミステリだから、物語の中では当然、人が死んだり暴力的な事件が起こったりするのだが、これらの作品はそういった通常のミステリのレベルを超えて「この世界の酷薄さ」を恐ろしいまでに抉り出していた。
そんなことはただの偶然で、特別な意味などないのかもしれない。そう思う反面、バシャール的に言えば、世界がさまざまに分岐していく中で、私は「そういう方向に進む列車に乗った」のかもしれない、とも思う。
そして、私のこの文章であなたの中に響くものがあるなら、あなたもまた「私と同じ列車に乗った」のかもしれない。この世界が残酷であることを知る列車に。
しかし、そうだとしても悲しむことはない。この世界は残酷だ。けれど、それでも美しい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます