深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

問い 2

2019-09-06 19:44:32 | 趣味人的レビュー

米澤穂信(ほのぶ)の『王とサーカス』は、若きジャーナリストの大刀洗(たちあらい)万智が、「ジャーナリストとは?」、「何かを報道するとは?」という問題にぶち当たり、悩み、葛藤しながら、国家を揺るがす大事件の影の、もう1つの殺人事件に立ち向かう本格謎解きミステリである。『さよなら妖精』の続編として2015年に発表され、その年の国内ミステリでベスト1に輝いた。

『さよなら妖精』で1991年、異国から来た少女マーヤと出会い、高校の仲間たちと共に彼女の発する素朴な疑問と向き合い、解いてきた大刀洗万智はその後、新聞記者を経てフリー・ジャーナリストになった。その一発目の仕事が「月刊深層」のアジア旅行特集の記事で、取材のためネパールに来ている。だが彼女は、そこで予想もしなかった大きな事件に遭遇することになる。2001年6月1日、王宮で晩餐会の最中に王族同士の殺害事件が起こり、BBCがその第一報を伝えたのだ(これは実際に起きた事件)。

万智はこの件を取材するため、滞在しているトーキョーロッジの管理人、チャメリから王宮に仕える知り合いの軍人、ラジェスワル准尉を紹介してもらい、アポを取り付けるが、ラジェスワルは万智の質問には答えず、逆に彼女を問い詰める。「ジャーナリストが真実を記録し、伝えることに何の意味がある? 真実ほど多面的で容易にねじ曲げられてしまうものはない。それに真実(だとお前が信じるもの)を伝えたからといって、結局そのニュースもサーカスのように一時の娯楽として消費されていくだけではないか」と。

結局、ラジェスワルからは肝心なことは何も聞き出せないままトーキョーロッジに戻った万智だが、その直後、彼が体にINFORMER(密告者)の文字が刻まれた死体となって見つかる。これは万智に対する警告なのか? 異国での万智の奮闘が始まる…。

私が一番驚いたのは、『王とサーカス』が米澤作品によくある「見かけは長篇の実は連作短篇集」ではなく、ちゃんと長篇になっていた(笑)ことだ。米澤の十八番である「日常の謎」は、同じロッジに滞在しているアメリカ人のロブと屋台で食事した時の「出されるスープがなぜいつも冷めているのか」という部分くらいで、後はしっかり普通の長篇になっていた。
とはいえ米澤穂信の手になるものなので、もちろんミステリとして過不足なく面白い。死体に刻まれた文字、登場人物たちの何気ない言動といったものを別の角度から読み解くことで、その構図が一変する下りの爽快感は、さすがは練達の書き手であり、だからこそ、その年の国内ミステリ・ベスト1だったのだろう。

さて、ここからはこの作品のもう1つのテーマである、大刀洗万智が突きつけられた問いについて考えてみる。万智はラジェスワルから「なぜ」、「なぜ」、「なぜ」と問われ、答えることができなくなってしまうが、これはもちろんジャーナリストだけでなくどんな職業でも、あるいはどんな行動でも同じで、それをやる意味を問われ続けると上っ面の建前論は意味を失い、最終的には「それをやりたいから」ということしかなくなってしまう。「それをやりたいからやる/やっている」──人がそれをやる理由は、意味は、結局それだけでしかないのではないか(だから、耳障りのいい使命感などを声高に叫ぶ人を私は信用しない)。

ジャーナリズム、報道という部分に話を戻すと、恐らくジャーナリズムの根底にあるのは突き詰めて言えば「何かを知りたい/知らせたいという根源的な欲求」であり、報道とは「その欲求を満たす行為」に他ならない。であれば、ラジェスワルが主張する「報道されても娯楽として消費されて終わり」というのは、むしろ当然のことだと言えるだろう。よく「○○(という出来事)の記憶が風化している。これではいけない。○○を忘れるな」という人がいるが、そもそもそんなことは無理なのだ。「知りたい/知らせたい」という欲求が満たされれば、多くの人にとってその情報はもう用済みなのだから(それに「○○を風化させるな」と言っているその人自身、別の△△のことなどもう覚えていなかったりするだろう)。

ところで、上に述べたように『王とサーカス』では物語の中に現実に起こった事件が組み込まれている。それ自体は話にリアリティを持たせるといった意図でしばしば用いられる手法だが、改めて大刀洗万智が実際に解決することになる事件を見てみると、そこにネパールの王族殺害事件を持って来る必然性はないことがわかる。小説を書く上でより自由度が高いという点を考えれば、架空の国の架空の事件でもよかったはずだ(米澤穂信の筆力なら、それでも十分リアリティを持って書けただろう)。『さよなら妖精』ではユーゴスラヴィアの崩壊が重要な出来事として語られるので、それに合わせたのだとも考えられるが、果たしてそれだけなのか?

この作品では「報道の真実性」について問う下りもあるが、その一方でミステリ(に限らず小説というもの)は基本「作り話」であり、ジャーナリスティックな意味での「真実」から最も遠いところにあると言っていい。米澤穂信はこの作品に現実に起こった事件を組み込むことで、「作り話」を語る自分自身に向けて「真実性とは何か」についての問いを突きつけたのかもしれない。

※「本が好き」に投稿したレビューを加筆修正したもの。


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