BGMに選んだのはアニメ『STAR☆DRIVER』の4つの挿入歌の1つ、戸松遥の歌う「モノクローム」(ちなみにこれはショート・ヴァージョンで、「モノクローム」には全く違うアレンジによるロング・ヴァージョンもあるが、「モノクローム」といったらやっぱりコレだよね)。
私は「優れたアーティストは、また優れた予言者である」ということを信じている。例えば、今話題のマンガ『進撃の巨人』などは、寓意的な形ではあるが今の震災後の日本の姿をほぼ正確に予見していたように思えてならない。だから今後、世の中がどのように変わっていくかを知りたければ、変な占い師や自称・予言者などに聞くより、優れたアーティストの作品や彼らが語る言葉に注目する方がずっといい、と思う。
3・11の震災は、直接被災した人たちはもちろん、そうでない人たちも含めて、人々の意識を大きく変えるだろう、ということは改めて書くまでもないことだが、私個人としてはその意識の何がどう変わるのかが明確に言語化できないままだった。
そんな中、6/7(火)の朝日新聞に漫画家のいがらしみきお(あの『ぼのぼの』の作者)が書いた、「大震災で見た『神様のない宗教』」というサブタイトルの入ったコラムに、非常に啓示的なものを感じた。
そのコラムで彼は、昨年から宗教をテーマにした作品を書いていて、その第1部の最終話を描いた直後に震災が起き、自身も仙台で被災したことを述べた上で、以下のように続けている。
電気が通じると、私はテレビの前から離れられなくなった。一漫画家の気のせいか、思い過ごしてあるはずなのだが、まさに「神様などいない」無慈悲な光景が繰り返し繰り返し流されつづけた。
テレビや新聞で見る限り、誰も神様の話などしていない。誰もが人間の話をしていた。流された家屋、失った家族の命、跡形もなく消えてしまった故郷。そして、それを慰め、手を差し出し、元気づけようとする人々。ありとあらゆる人間の不条理を眼前にしながらも、みんががみんな、まるで信仰のように人を信じていると、私は思った。神様のない宗教がそこにあったのではないだろうか。
私はそんな風には人を信じられない人間である。人を信じることが出来ないので、自分はどこから来てどこへ行くのか、この世界はいったいなんなのか、なぜ生まれたのか、そんなことばかり考えて来たはずなのだ。
それらを棚上げにして、ひとまず生きていくということは、親を殺され、殺した犯人を捕まえようともせずに、ただ毎日のうのうと生きている者のようにさえ私には思えていた。しかし被災した人々の顔には諦めと覚悟と、時にはほほ笑むほどの清清とした表情があった。この人たちは自分の親を殺した犯人をさえもう許していたのだろう。
(中略)
宗教の言葉でいうところの法難の様相さえ帯びていたこの3カ月間の日本を見るにつけ、そこになにかの意志と意図を感じないわけにはいかない。これほどの災害を勝手な決めつけで語ることはしてはいけないのかもしれないし、それこそ漫画家の気のせいと思い過ごしかもしれないが、私には日本人が人を信じることをやめないという決意を表したように見えた。
9・11のあとにアメリカはビンラディンを殺害したが、3・11のあとに日本はどうするのだろう。日本は誰かを殺すだろうか。
我々は誰も殺したりはしないだろう。それは我々の相手が自然災害だったからではない。我々は原爆を落とした国をさえ許したのではなかったか。我々はまた許すのだろう。許すことが正しいか正しくないかではなく、許すことでしか前を向けないことに我々はもう気がついているのではないだろうか。
今度は神様を許すことになるとしても。
20世紀初頭、ニーチェは「神は死んだ」という言葉で世界に衝撃をもたらした。それから100年、我々の意識はもうそれすらも超えて「神さえも許す」というところに至ろうとしつつあるのかもしれない
ならば、その先に待つものは一体何だろう。それが私には楽しみで仕方ない。
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