奈須きのこの同名の原作を1章ずつアニメ化した『空の境界』。その第7章の後に来る『終章』がYouTubeにアップされている。
『空の境界』には、まだ外典とも言うべき『未来福音』が残っているが、アニメ化を担当したufotableが『Fate/Zero』の制作に入っていることから、アニメ版『空の境界』はこの『終章』をもって終了となるようだ。
『空の境界』という物語のアウトラインは既に「殺人に至る病」の中で述べたが、この『終章』のために多少付け加えるなら、1995年のあるの日、黒桐幹也(こくとう みきや)が雪降る中にたたずむ一人の少女、両儀式(りょうぎ しき)を目にしたことから始まる(それが第2章『殺人考察(前)』の冒頭)。そして『終章』で、彼らはその「始まりの場所」で再会するのである。
『空の境界』は猟奇的連続殺人を扱うため、各章にはかなりエグいシーンや残酷な描写が入っているが、この『終章』は二人の人間が雪の中で会って話をしているという、ただそれだけで構成されている。本当にただそれだけ。しかし、そこで語られる事柄は、単純に前の7章までで語られなかった、この物語の裏の構造を明かす、というだけに留まらない深いもので、非常に示唆に富んでいる。
哲学的な内容を含むため、正直なところ「視れば誰にでも理解できる」という話ではない。かれども、このブログに来たあなたならきっと理解することができるはず──そう私は思う。もちろん「理解できる」ことと「同意できる」こととは違う。私はあなたに、ここで語られていることに「同意」してもらいたいわけではない(実際、私にも同意しがたい部分がある)。ただ私がそれを視て感じたような何かを、他の人にも感じてほしいと思っているだけだ(もちろん、あなたはこれを視ても何も感じないかもしれないが)。
あらゆるものの「綻びの線」が見える「直死の魔眼」を持つ式と、殺人衝動だけをもった識(しき)──「両儀式」の中に宿る二つの人格。それらはどこから来て、どこへ帰って行くのだろう。「私」の中に宿るいくつもの人格もまた、どこから来て、どこへ帰って行くのか。もちろん『終章』の中にその答があるわけではないが、答へと向かう「一里塚」くらいにはなるのではないか。
とは言え、YouTubeにアップされていた本編の映像は消されてしまってもう見ることはできない。だからせめて前に書いた「殺人に至る病」を読み返してもらいながら、そこには入れなかった第7章の予告編と最終章の予告編を視てもらおう。
最終章での両儀式の言葉。
どんな人にだって肉体そのものに人格はあるけれど、それ自体が自己を認識することはないわ。その前により確かな己(おのれ)として脳が知性を作り上げるから。脳の働きによって生まれた知性は人格となって肉体を統括する。その時点で肉体に宿っていた人格なんて無意味になってしまう。脳だって体の一部にすぎないのに、知性は自身を生み出す脳だけの特別なものとして扱うでしょう。どちらも同じものなのにね。人格という知性は自らを作り上げた肉体のことなんか知らず、知性が自分を作ったって思うのよ。
──だが、本当にそうだろうか…。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます