護符(=おふだ)やら仏像の写真やらを波動転写したキネシオテープ(別にキネシオテープである必要はないが)を貼ることで治療するという、私がテクスチャー・セラピーと名づけた変な療法の話の続編。前の時は、いつの間にか波動転写するネタ元が増えて、『週刊 日本の仏像』に引き続いて、ラインナップに『週刊 世界の美術館』が加わったというところまで書いたのだったが、実はその後、更に『岩石と宝石の大図鑑』も仲間入りした。今回は、そのネタ元を選ぶ際に気づいたことについて少々。
前の時も書いたが、『日本の仏像』も『世界の美術館』も全巻買っているわけではなく、キネシオロジーの筋反射テストで治療に必要なものかどうかを調べて、「必要だ」という結果が出たものだけ買っている。『岩石と宝石の大図鑑』を買ったのも、同じ筋反射テストで「買っとけ」という指示を受けたからで、実際、買ったすぐ後にそれがあったことで治療がうまくいったケースがあった。だから、指示には素直に従うことにしている。
で、『岩石と宝石の大図鑑』を使うようになって気づいたことがある。波動転写に使う写真は表紙に載っているものとは限らない。何冊もあるうちの、どの本のどのページのどの写真を波動転写するかはケース・バイ・ケースで、やってみなければわからない。なので、『日本の仏像』や『世界の美術館』は(ムックでページ数もあまりないこともあって)一応全ページに目を通すようにしていた。しかし、個人的に岩石や宝石には特別関心があるわけではないの上にページ数も多いので、『岩石と宝石の大図鑑』は買った後もほとんど開いたことはないのだが、それでも筋反射テストで、その本の中の必要な写真を見つけ出すことができている。
そう思った時に気づいたのは、『日本の仏像』も『世界の美術館』も買うか買わないかを決めた後に、中身を開いて見ていたことだった。つまり筋反射テストを使うにしろ、中身を見た上で要る/要らないを判断していたのではなく、要る/要らないという結論が出た後で、せっかくだから中身も見ておこう、という順序で行動していたのである。明らかに因果律が逆転している。しかし、買った本はその後、例外なく臨床で使うことになった。過去に一度でも開いたことがあるなら、意識の上では忘れてしまっていても、その本の情報は意識の下に残っていて、それを使って判断がなされたと考えることができる。しかし、本屋の店頭に並んだばかりで手も触れていない本でも、要る/要らないという判断結果が得られる。そして、その結果は私の知る限り、中身を見た後も変わることはないのだ。
それを単なる偶然、と見ることもできる。別の本を買っていたとしても実は同じだったんだよ、と。これについては、比較対照実験ができない以上、そうだともそうでないとも言えない。だが筋反射テストすると、それぞれの本が明確に要る/要らないというふうに区分される。ここで仮にそのテストで得られる結果が正しいとするなら、その要る/要らないという判断は本の表紙のみならず、開いてもいない本の中身まで含めた上でなされているということになる。では、テストしている「私」は本の中身の情報をどのようにして「知り」得たのだろう。
もしかしたら、情報というのはそれが生まれた瞬間から、既に何らかの形で「共有」されているのかもしれない。
例えば蜘蛛はどうしてあんなに見事な巣を張ることができるのだろう。誰からも教えられていないのに。一般的には、それは「本能」という言葉によって説明される。ちょうどパソコンにOSやソフトがプリインストールされているように、そうしたものは脳の中に「本能」という形で持っているのだ、と。そうかもしれない。
しかし、こうも考えられないだろうか? 「本能」とは情報そのものではなく、「共有」された情報データ・ベースの中の特定の情報ブロックへのアクセス・パス(あるいはポインタ)である、と。つまり、「本能」とはパソコンに個別にインストールされた通常のOSやアプリケーションのようなものではなく、個々のパソコンで動作しているもののプログラム本体はネット上にあってパソコン上にはない、ネットワークOSやネットワーク・アプリのようなものなのではないか。
これなら脳が「本能」として保持していなければならないデータの量は格段に少なくてすむ上、生物が種として持つ基本生活様式(これを我々は「本能」として理解している)を環境の変化に合わせて、種全体で一気に変えることができる。非常に効率的だ(なお、「本能」も種によって微妙に違うのは、ネットワークOSやネットワーク・アプリのように個々の個体(パソコン)でカスタマイズが可能なのかもしれない)。
そしてそう考えると、ユングが集合的無意識と呼んだもの、シュタイナーがアカシック・レコードと呼んだものも、この「共有」された情報データ・ベースの一部のことなのではないか…と更に想像が膨らむ。
──と、3/20の1Day セミナーの中で雑談がそんな方向に進んだ(おかげで大幅に時間オーバー)。自分でもちょっと面白い発想だったこともあり、せっかくなので忘れないうちにまとめ直して文章化しておこうと思い、ここに記した次第。
前の時も書いたが、『日本の仏像』も『世界の美術館』も全巻買っているわけではなく、キネシオロジーの筋反射テストで治療に必要なものかどうかを調べて、「必要だ」という結果が出たものだけ買っている。『岩石と宝石の大図鑑』を買ったのも、同じ筋反射テストで「買っとけ」という指示を受けたからで、実際、買ったすぐ後にそれがあったことで治療がうまくいったケースがあった。だから、指示には素直に従うことにしている。
で、『岩石と宝石の大図鑑』を使うようになって気づいたことがある。波動転写に使う写真は表紙に載っているものとは限らない。何冊もあるうちの、どの本のどのページのどの写真を波動転写するかはケース・バイ・ケースで、やってみなければわからない。なので、『日本の仏像』や『世界の美術館』は(ムックでページ数もあまりないこともあって)一応全ページに目を通すようにしていた。しかし、個人的に岩石や宝石には特別関心があるわけではないの上にページ数も多いので、『岩石と宝石の大図鑑』は買った後もほとんど開いたことはないのだが、それでも筋反射テストで、その本の中の必要な写真を見つけ出すことができている。
そう思った時に気づいたのは、『日本の仏像』も『世界の美術館』も買うか買わないかを決めた後に、中身を開いて見ていたことだった。つまり筋反射テストを使うにしろ、中身を見た上で要る/要らないを判断していたのではなく、要る/要らないという結論が出た後で、せっかくだから中身も見ておこう、という順序で行動していたのである。明らかに因果律が逆転している。しかし、買った本はその後、例外なく臨床で使うことになった。過去に一度でも開いたことがあるなら、意識の上では忘れてしまっていても、その本の情報は意識の下に残っていて、それを使って判断がなされたと考えることができる。しかし、本屋の店頭に並んだばかりで手も触れていない本でも、要る/要らないという判断結果が得られる。そして、その結果は私の知る限り、中身を見た後も変わることはないのだ。
それを単なる偶然、と見ることもできる。別の本を買っていたとしても実は同じだったんだよ、と。これについては、比較対照実験ができない以上、そうだともそうでないとも言えない。だが筋反射テストすると、それぞれの本が明確に要る/要らないというふうに区分される。ここで仮にそのテストで得られる結果が正しいとするなら、その要る/要らないという判断は本の表紙のみならず、開いてもいない本の中身まで含めた上でなされているということになる。では、テストしている「私」は本の中身の情報をどのようにして「知り」得たのだろう。
もしかしたら、情報というのはそれが生まれた瞬間から、既に何らかの形で「共有」されているのかもしれない。
例えば蜘蛛はどうしてあんなに見事な巣を張ることができるのだろう。誰からも教えられていないのに。一般的には、それは「本能」という言葉によって説明される。ちょうどパソコンにOSやソフトがプリインストールされているように、そうしたものは脳の中に「本能」という形で持っているのだ、と。そうかもしれない。
しかし、こうも考えられないだろうか? 「本能」とは情報そのものではなく、「共有」された情報データ・ベースの中の特定の情報ブロックへのアクセス・パス(あるいはポインタ)である、と。つまり、「本能」とはパソコンに個別にインストールされた通常のOSやアプリケーションのようなものではなく、個々のパソコンで動作しているもののプログラム本体はネット上にあってパソコン上にはない、ネットワークOSやネットワーク・アプリのようなものなのではないか。
これなら脳が「本能」として保持していなければならないデータの量は格段に少なくてすむ上、生物が種として持つ基本生活様式(これを我々は「本能」として理解している)を環境の変化に合わせて、種全体で一気に変えることができる。非常に効率的だ(なお、「本能」も種によって微妙に違うのは、ネットワークOSやネットワーク・アプリのように個々の個体(パソコン)でカスタマイズが可能なのかもしれない)。
そしてそう考えると、ユングが集合的無意識と呼んだもの、シュタイナーがアカシック・レコードと呼んだものも、この「共有」された情報データ・ベースの一部のことなのではないか…と更に想像が膨らむ。
──と、3/20の1Day セミナーの中で雑談がそんな方向に進んだ(おかげで大幅に時間オーバー)。自分でもちょっと面白い発想だったこともあり、せっかくなので忘れないうちにまとめ直して文章化しておこうと思い、ここに記した次第。
>テープを使うのが楽しみです。
面白いケースがあったら教えて下さい──いや…「あらゆる情報は共有されている」という上に述べた仮説が正しいなら、「教えてもらう」というのは、ただ共有している情報の一部を意識化するためのプロセスに過ぎないのかもしれません。
…するとセミナーなんて受けるまでもない 怖ッ
まさにそうだと思います。
ですから、youtubu への訴訟など
アホらしい気がします。
世に出したくて出したのなら
著作権など・・・・
>「教えてもらう」というのは、
ただ共有している情報の一部を意識化するための
プロセスに過ぎないのかもしれません。
そうかも知れませんが・・・
通常、「情報を意識化する」と言う事が
出来ないのかも知れません。
良い事か、悪い事かは解りませんが
習った事以外はしない人が多くなりました。
ですから、意識化・具現化・文章化できる
先生の技術は宝物です。
また、意識化するためのプロセスを消化する事で
情報の再インストールやアップデートが
出来るのではないのでしょうか?
先生のブログを読んでいると、
鍼は、印堂のみ だけとか、
「南無大師遍照金剛」 とテープ貼るだけ
とかで、治ってしまいそうな気がして来ます。
早く、そうなりたいものです。
>そうかも知れませんが・・・通常、「情報を意識化する」と言う事が出来ないのかも知れません。
もしかしたら、天才とは「共有されている情報を自然に意識化できる人」なのかもしれませんね。
>先生のブログを読んでいると、鍼は、印堂のみだけとか、「南無大師遍照金剛」とテープ貼るだけとかで、治ってしまいそうな気がして来ます。
治療家が最後に向かう先は、やはりそういうところなのでしょうか?
私にはまだまだ遙かな道です。ゴダイゴの歌う『ガンダーラ』が聞こえてきそうです(どうした~ら行けるの~だ~ろう。お~し~え~て~ほ~しい)。
と、ハリセンボンヌ君を御供に、
7月にガンダーラへの予約を取ったつもりです。
実は先日、とんぼ返りで上京したのですが
ハリセンボンヌ君も、先生の所へ伺うのを
楽しみにしていました。
言葉を越えた情報を意識化出来る鍼灸師に成れて良かったと思います。
そして、先生の意識化しつつも、言語を越えた情報の配布に感謝です!
>ハリセンボンヌ君を御供に、7月にガンダーラへの予約を取ったつもりです。
7/21でしたね。ありがとうございます。お待ちしています。ボロが出ないようにガンバリます。
あ、それから、7/20に1Day セミナーを行う予定ですので、宜しければそちらにもどうぞ。
ディズニーランドに行く約束をしてしまいました。
う~ん、子供はハリセンボンヌ君に頼むか...
予定変更したいなぁ~。
じゃ、ディスニーランドでセミナーしましょうか──ってワケにもいかないのが残念。
ま、まだ先の話なので…。
いつも先生のブログをストーカーの様に陰ながら拝見させて頂いております。。
>脳が「本能」として保持しなければならないデータ量は格段に少なくてすむ上、生物が種として持つ基本生活様式(これを我々は「本能」として理解している)を環境の変化に合わせて、種全体で一気に変える・・・
さすが先生!! 普段、筋肉反射テスト等を使っていていつも疑問に思う事を明確に答えて頂いた様な思いです。
七月は僕もガンダーラへお邪魔させて頂きます。その節は宜しくお願い致します。 ポスト・さごしょうより
nanahoshi先生のブログでもお名前を何度も拝見しています。コメント下さりありがとうございます。
>七月は僕もガンダーラへお邪魔させて頂きます。
お待ちしています。が、そのガンダーラ、果たしてユートピアでありましょうや